132話 子を持つ親の業

 孫の名前を考えているんだ。


「気が早すぎる」


 娘が二十歳になった歳の暮れ、俺とミリムは二人きりで茶を飲んでいた。


 それは俺が得られると想像さえしていなかった穏やかな時間だ。

『敵』がもっと人生をかき回すと思って生まれてきたのだが、『敵』は二十年に一度ぐらいのペースでほんの少ししっぽの先をのぞかせる程度で、俺に直接的な攻撃はしてこない。


 いや、その『敵のしっぽ』さえも、実は俺の想像なのかもしれない。


 人は起こった事象を自分の持っている情報だけで解釈しがちだ。

 幽霊や妖怪なんかもそのたぐいで、『誰もいない部屋から笑い声が聞こえた』とかいう怪談の正体が、すきま風の音だったり、家のきしみだったり、『誰もいない』と思いこんでいるだけで実は人がいたという真相だったり、そういう肩すかしの種明かしはいくらでもある。


 こういった話を聞いて思うべきは『知らないことを予断で解釈しないよう気をつけよう』、では、ない。


『人は、すべての事象に正確な理論を述べることができない』


 人の知識は有限だった。人の技術には限度があるのだった。

 もしも人類が無限に知識を吸収し続けることのできる生命ならば、『専門家』という概念は必要ない。


 わからないことがあるのは、自然なことだ。

 だから、起こった事象には常に一抹の疑いを持ち、『自分が持っている理屈だけですべて説明してやろう』などと勢い込まないことが大事だ。


 特に――心の問題はそうだ。


 だからミリム。

 俺が孫の名前を考えるのは謎の焦燥に突き動かされてのことなんだ。


 気が早いんじゃない。

 今、考え始めないと、いてもたってもいられなかった、だけなんだよ。


「あなたが言いそうなことではあるけど、心情は当然ながらわからないよね……」


 ミリムは俺の行動をだいたい予測している――というか俺が『よくわからないことをやり出す』ことを知っていて、『なぜそんなことをやり出したのか』という思考の流れをトレースする精度がめちゃくちゃ高い。


 連れ添って生きるうちにその精度はもはや読心の域にまで達している。

 だが、それでも読み切れないことはある……今日のように、突発的に孫の名前とか考え出すケースがそれにあたるのだ。


「というか、孫の名前はサラたちが決めるだろうし、二人の結婚はまだ先だろうし、なんならあなたはまだ許可してないよね……」


 娘もブラッドもまだ大学生だからな。


 それに、娘を二十年見てきてわかったことがある。


 結婚を許可しないのに、『俺の娘をほかの男にとられたくない!』みたいな気持ちはまったくないんだよ。

 ただ、なんていうんだろう……


 そう、『し』だ。


 推しが結婚して誰かのものになるのあるじゃん。

 別に俺と結婚しなくてもいいんだけど、『ファンという群体』じゃなくて『名前のある個人』と推しがくっつくのは、筆舌に尽くしがたい複雑な心境なんだ。


 幸せになってほしいのはもちろんだし、それが推しの選んだ道ならファンとしては祝福もする。

 でも、複雑な気持ちまでは止められない。


 そう、変化だ。


 推しは俺の生活のそこここに浸透していて、たとえば洗濯物を干す時とか、洗い物をする時とか、そういう手慣れた作業をしている時の思考の余白に、ふと姿や行動が思い浮かぶことがある。

 でも特定の誰かとくっついたなら、そういう想像をするのはなんか不貞かなとか失礼かなとか……

 距離感の変化っていうの?

 それに戸惑い、配慮のしかたがわからなさすぎて面倒くさいんだよな。


 今後どうやって付き合っていけばいいのか謎すぎるんだ。

 まあ、今までと変わらずにいけばいいって言われるんだろうけどさ、そう言うのはわかるけど、それだけじゃ対応しきれない細かいものがあって……

 だからその……恐怖? 不安? に負けて、ついつい結婚に反対みたいな感情を抱いちゃうんだよな。


「わからなくもないよ。『理解はできる』っていう意味だけど……」


 共感はできないらしかった。


 俺たちは共働きで、家事も分担し、サラが赤ん坊のころからほぼ均等な時間、サラに接してきた。

 だが、それでもやはり、男親と女親の違いみたいなものは、あるのだろう。

 あるいは『親』なんていう言葉はいらず、男女の違い、と単純に述べてしまってもいいのかもしれない。


 けっきょく俺は、女性のことがわからなかった。


 まだまだ人生は終わらないので、『わからなかった』とまとめに入ることもないのかもしれない。


 しかし、俺も四十七歳になった。


 ここから急に『女性のことがわかった!』となる可能性はすさまじく低いように思われたし……

 ここからいきなり女性のことを理解できるような展開が今後の人生に待ち受けているのならば、それはじゃっかんどころではなく『なにが起こるんだ』という不安をかき立てられる。


 というか、俺はすべて『わからなかったな』と思いながら死んでいくのだろう。


 それは運勢とか『敵』とかとは関係なく、『自分の理解している範囲だけで物事を簡易に解釈しないようにしよう。一抹の疑いは常に持ち続けよう』という主義の問題だ。


 なにも知らずに産まれてきて、なにもわからず死んでいく。


 いかにも悲劇的な言い回しに聞こえるかもしれないが、きっとそれが『驕らない、普通の人生』ということなのではないかと思う。


 まあ、俺の心情も信条もそれはそれとして……

 最近の俺は、まだ見ぬ孫のために名前を考えたり、ベビー用品をネット巡回したりしている……


 ミリムはないの? そういうの。


「孫のための口座は作った……」


 俺よりやべーじゃないか……


「いや、でも、お金はお金だし。孫ができなくても、サラとかにあげたらいいし……」


 俺たちはしばし見つめ合って、それから笑った。


 本当に、産まれてくるであろう孫の存在と――

 思春期に入った我が子の恋愛事情が気になってたまらないのは、『親』という存在が生まれつき持つごうだと思った。


 まあうちの娘の思春期に浮いた話は一つもなかったんだけどさ。

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