96話 空漠~穴~

 結婚式前はいそがしくなるということを俺はもちろん知っている。


 だからこそアンナさんからの『会おう』というお誘いに俺たち夫婦が子連れで出向いたのは、いそがしい中に会う時間を捻出してくれた彼女へのお礼という意味合いもあった。


 そこは俺やミリムが入ったこともないようないかにも高そうな喫茶店で、俺たちは気後れしながら店奥のテーブルでアンナさんと再会した。


 アンナさんは旦那連れではなかった。

 また、やっぱりいそがしいようで、時間もあまりとれず、一時間ぐらいしかこうして話せないらしい。


「あー、サラちゃんだ! 写真いっぱい見せてもらったけど、実際に会うのは初めてかな? よろしくね」


 とっくに三十歳になっている彼女は、まともに会えなかった数年間でさらにその美しさに磨きをかけていた。

 ピアノ奏者という人に見られることの多い仕事がそうさせるのか、普段から見た目の手入れをおこたっていないのだろう。

『俺たちに会う』というそこまで気合いを入れなくてもいいこのイベントにおいても、彼女は髪も顔もきちんと手入れしていて、ただ、妙に野暮ったいメガネだけが美しすぎる彼女に対する親しみを思い出させてくれた。


 しばらくテーブルに身を乗り出してサラとたわむれていたアンナさんは、名残おしそうにサラの小さな手を放すと、穏やかな笑みを浮かべて俺たちに向き直った。


「いやー、なんかいきなりだったね。もっと早くに連絡したかったんだけど、バタバタしてて。ごめんね」


 アンナさんは会うたびに、しゃべりかたというか、表情というか、雰囲気すべてが柔らかくなっているような気がする。

 それはやっぱり他者と接することの多い職業がそうさせるのかもしれなかったし、あるいは、結婚を控えた幸せがそうさせるのかもしれなかった。


 今ここに、アンナさんの旦那となる人物は来ていないが……

 彼女の顔を見れば、結婚は望んだものであり、周囲からも望まれたものであることは自然とわかる。


 俺はつい、言った。

 幸せなんですね。


 アンナさんは一瞬おどろいたような顔をして、それから、笑う。


「そっちこそ」


 そうだった、と俺も笑った。


「うん、よかった。二人が結婚してくれてよかったよ。特にミリムちゃん……」


 ミリムがなにか?


「……あ。こうなるとレックスくんは『なんなのか』を聞くまで引き下がらないよね」


 俺のイメージがすごい。

 しかし間違っていない気がする。

 俺は『言いよどまれること』にトラウマがある気がした。

 それはなぜかわからないが、心の中に『言いよどまれたことを追求し損なうと、永遠にその時に言いかけた言葉を聞くことができない』という謎の焦燥感があるのだ。


「ミリムちゃんはほら、レックスくんに色々助けてもらってたから。それで昔から好きだったんだよね」


 ……俺はなにかをやったのだろうか?

 こわい。

 記憶がない……ミリムに俺はなにをしたんだ? なぜ『なにかをした』という記憶がないんだ?

 まさか……何者かが俺の記憶に介入をしている?

 あるいは、俺も意識しないあいだに、俺の意識がなにものかに乗っ取られている?


 アンナさんは「あ、また黙ってなにかよくわからないこと考えてる」とつぶやき、それから言う。


「ほら、今はそうでもないけどさ、あのころは獣人種って珍しくって……みんな、ミリムちゃんをさ」


 ……まさか、いじめが?


「ううん。すごく異常にかわいがってて……私もだけど。それがうざったかったみたいで」


 ミリムを見た。

 彼女は目を閉じて深くうなずいていた。


「それでさ、そばにレックスくんがいると、人が寄ってこないでしょ?」


 え、待って待って待って。

 なんで俺がそばにいると人が寄ってこないの?


「表現が難しいから、今度そのテーマで作曲するね」


 マジで? 俺のそばに人が寄ってこない理由、旋律でつづらないと説明できない?

 言語より高次のコミュニケーションでしか語れないとか、どうなってるんだ。


「いやほら……誰でも触りたくなるじゃない、耳とか、しっぽとか。それがイヤだったみたいで。レックスくんのそばにペッタリとくっついてると、人が寄ってこないから安心できたんだって」


 そうは言うが、俺もけっこう、ミリムの耳とかしっぽ触ってた気がするんだけどな。


「レックスくんは穴しか触らなかったって」


 穴?


「しっぽ穴」


 ……ああ~……

 そんな記憶がよみがえってきたわ。


 穴をいじくる幼児とか完全にエロワードじゃん……

 俺はへこんだ。


「そういえばサラちゃんのしっぽ穴も自分で開けてるの?」


 そうですね。


「じゃあ……触られないといいね。穴。伸びちゃうもんね」


 たぶんアンナさんにシモネタを言ってる意識は全然ない気がするんだが、俺がもう『穴』をエロいものと認識してるので、アンナさんがめっちゃシモネタ振ってくる人みたいになってしまっている。


 いや、振ってるのか? 実はシモネタを振っている?

 わからない……アンナさんはすべてを受け入れるかのような優しい笑みを浮かべているだけだ。

 すべてを受け入れる人が穴の話をしてると思うだけで、俺の心は男子中学生当時に戻れた気がした。


 俺たちは幼いころから今までのことを話し続ける。

 そして話題が会っていなかった数年間に移り、続いて未来についての話を多少したところで、アンナさんにタイムリミットがおとずれた。


「あ、そろそろ戻らないと。実は本当にバタバタしてて、衣装合わせがまだ終わってないの」


 それかなりヤバい進行では。

 俺はつい進行についてコメントしそうになって、しかしそんなことよりもっと、伝票を持って去ろうとするアンナさんに言うべきことがあるのだと気づく。


 アンナさん、ごちそうさまです。


「あ、うん」


 あと、ご結婚おめでとうございます。


「……うん」


 アンナさんは笑って、去って行った。

 俺はサラを抱いたまま、彼女の長い金髪がサラサラとなびくのを見送った。

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