95話 招待状前
価値観は時代とともにアップデートされるものだ。
現代の風潮をかんがみるに、別に『二十代で結婚する必要がある』とか『三十を超えて結婚していない女性が行き遅れ呼ばわりされる』とかいうことはない。
……まあ皆無ではないが、そんなことを言う人は頭の固い年寄り扱いされて、多くの人に相手にされないだろう。
だが、それでも知り合いにちらほらと既婚者が増えてくるのもやはり二十代後半ごろで、俺もサラが生まれてから数回、知人の結婚式に出席する機会に恵まれた。
……嘘はよそう。
『結婚式に出席する機会に恵まれた』とは思っていない。他者の主催する式典はなんであろうとだいたい面倒くさいから、『恵まれた』なんて思えない。
俺は人の幸せで喜べない人格の持ち主だった。
正直、『同じクラスで過ごした』程度の知り合いの結婚式とか、しかもそいつが俺のまったく知らない誰かと結婚するとか、『勝手にして』ぐらいにしか思えないし、本当なら出たくないし、なによりご祝儀とか払いたくない……
しかし、それでも俺は結婚式のお誘いは必ず承諾して出席した。
準備は面倒だった。時間をとられる。少額とは決して言えない金が飛んでいく。
それでも『おめでとう』という意を示したかったのだ。
処世術として相手の結婚式に出ておくべきだという判断はもちろんあった。けれどそれ以上に、『出席者の多さ』はのちに自信につながる。
自分を祝ってくれている他人の数は(それを『数』ととらえるのはいかにも非情な気もするのだが)、うまく言えないけれど、『力』になるのだ。
だからこそ俺は出席を迷ったことはなかった。
ためらったことはあるし、本音では『行きたくない』と思ったことはあるが、そういう後悔はいつも、出席の旨を記した招待状を返送したあとだった。
けれど、俺は今、『出席』に○さえつけられずに固まっている。
食事にも使っているテーブルの上は綺麗に片付いていて、上には一枚の招待状と、じきに二歳になるサラが乗るのみであった。
俺はサラを自分のふとももの上に戻し、招待状を見る。
それは、アンナさんの結婚式の招待状だった。
まったくの突然に送られてきたこの招待状は、俺をおおいに混乱させた。
『アンナさんには俺にいちいち交際にまつわる話を報告する義務がない』と言われれば、それはまったく正しいと思う。けれどあんまりにも唐突すぎて、俺はなんだか、わずかに不満のようなものを感じていた。
そもそも……アンナさんは保育所時代に俺を世話してくれたり、その後もなにかと俺をとりたててくれた恩人だ。
恋愛関係になったことは一度もない。そういった気配さえ漂ったことがない。
彼女は姉で、俺が弟だった。
俺は物思いにふける。サラが俺の拘束を脱してテーブルにのぼろうとする。俺はそれを止めて、また招待状を見やる。
そうだ、だからこそ、かもしれない。
彼女を姉のように感じていたからこそ、俺はこんなにも打ちのめされているのだろう。自分にかまってくれていた優しい姉が、いきなり『姉』ではなく『誰かの嫁』になってしまうことに、心がついてきてくれないのだ。
サラがテーブルをのぼろうとする。俺はそれを止める。
サラは「つくえ!」と叫ぶ。俺は机にのぼってはいけない理由を淡々と説明する……だが幼児に理屈は通じない。サラはあがく。俺は止める。そこは食事したり文字書きをしたりするところだから! お前のステージではないのだ!
もがくサラを抱きしめる。そのふわふわボディを堪能しながら俺は物思いにふける……そう、アンナさんは姉で、俺が弟で……サラが俺の拘束を脱する。
俺はサラを止める。なんだ、なにがそんなにお前をテーブルの上に駆り立てるんだ……こないだからやたらと踏み台昇降運動をしたがる……お前は将来トップに上り詰める人材だが、それは今ではない……だからテーブルに乗るな。
俺はアンナさんについて物思いにふける。思えば彼女との出会いは保育所のころで、それからしばらく同じ学園に通ったりしつつ……テーブルに乗るんじゃない。そんな低いところで満足するな。お前はもっと高みにのぼりつめる人間だ。だからテーブルはよせ。
お前の大好きな『りゅうおうさま』も言っていただろう、『フハハハハ! 自由にするがよい! ただし行儀は大事だ!』と……そう、テーブルの上にのぼるのは行儀が悪いんだ。わかってくれ、娘よ。
俺は物思いにふける……そう、『りゅうおうさま』といえば俺も幼児期に見ていた番組だが、俺がいよいよ三十歳をむかえようとしている今もまだ続いているのだ。すげーよりゅうおうさま……俺の経験した人生の半数以上より長寿やん……
違う、アンナさんのことで物思いにふけりたかったのだ。
しかし最近の娘は足腰がしっかりしてきていて、すごく動く。すごくのぼる。
縦方向への移動が特にすごいのは獣人種ならそういうものらしいのだけれど、親としては横移動より困るのでもうほんとおとなしくしてて……って感じだ。
子持ちは物思いにふけることさえままならない。
俺はサラの腋に手を差し入れて高くかかげた。
あんだけテーブルにのぼりたがったくせに、別に高い場所自体に執着はないらしい。テーブルよりも高く掲げてやったのに、『なんで?』みたいな顔をしている。
っていうか……あらためて見ると、でっかくなってる……
生まれた時は片手でも持てそうなサイズ感だったのに(実際に片手で持ったことはない)、今は両手でないと確実に落とす。
子供の成長は本当に早くて、親はちょっとした物思いにふけるような時間さえない。
ふと思いついて、俺は手にしたペンをサラに持たせて、テーブルのほうを向かせた。
そして、『それに、一つだけ、丸を描いて』と依頼する。
サラは使命に燃えた真剣さを背中から漂わせ、ぐるっと大きく丸を描いた。
その丸は招待状の大部分を覆うようなものだった。
まあそうなるよな。
こう、理想としては、サラが『欠席』か『出席』どちらかに丸を描いてくれて、俺はそれに従うということだったんだけれど……
子供は俺の迷いに答えを出してはくれない。
だから俺は迷いながら、自分で『出席』に丸を描いた。
「大人も迷うんだよ」
サラに言った。
通じている気配はあんまりないが、サラは俺の手からボールペンをとって、新しい丸を描いた。
こうして『出席』と『欠席』に一つずつ丸のついた招待状ができあがったのだった。
いや、出席するけどさ。
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