18話 初等科への進学、環境の変化
運動会で苦い引き分けを強要され、芸術祭ではダンボール工作に挑み、そうこうしているあいだに年長の一年はまたたくまに過ぎていった。
俺もいよいよ初等科へ進むことになる。
アンナが「三年生のおねえさんになって待ってるからね!」と言っていた。計算ができるようになっている。
初等科でほどこされるカリキュラムは、やはり今までのものと比べてハイレベルになっているようだ。まさか『相手が卒舎した時自分が何年生か』をああもやすやすと導き出すとは……
俺は新しい制服を採寸され、ランドセルを買い与えられ、おばあちゃんから入学祝いにおもちゃをたくさん買ってもらった。
制服はなんだかきゅうくつだったけれど、これはきっと『敵』が初等科児童たちに『貴様らは制服という首輪をつけられて過ごすのだ』と思わせるためにきゅうくつにしているに違いない。
そうだ、この世界で、まだ俺は『敵』の正体をつかめていない。
漠然と『闘争心を奪う』ことをおこなっているのだと知ってはいる。けれどその規模も、目的も、なにもかもがわからない。
百万回の転生においてさえ、ここまで正体を見せない『敵』がいたことは一度もなかった。まるでいないかのような存在感のなさだ。
いつこの悪辣なる世界が牙をむくのか、タイミングをずっとつかめないでいる。緊張状態が続き、精神が疲弊していく。『敵』はきっとそれを狙っているのだ……
しかし初等科生になった俺はこれから体もガンガン大きくなるし、力も知恵もついてくるだろう。
『敵』がこちらの疲弊とそれによる気の緩みを待っているならば、それは『時間がある』ということだ。世界が俺に牙をむくまでに、俺は己を鍛え上げよう。
最近ふと『この世界は本当に敵なんかいない、平和で優しい場所なんじゃないか?』と思うことが増えてきた。
よくない傾向だ。『敵』の術中にはまっている――だが、漫然と過ごしているだけではかりそめの平和を信じてしまうのも事実だ。この肉体に入ってからというもの、精神がゆるふわで緊張感の維持が難しい。
こういう時は、気合いでどうにかなるものではない。
環境だ。環境を変えなければならない……根性論で己をいましめるのは意外と早く限界を迎える。精神というのは体調や摂取した栄養にかなり左右されることを、俺はよく知っているのだ。
そんなおりだった。
アンナからピアノの発表会に招待されたのだ。
ピアノというのはおそらくこの世界でもっとも有名な楽器である。三つ足の巨大な箱で、白黒の鍵盤をたたいて箱内の弦をはじき、音を奏でる。
アンナは三歳当時から週に二度ほどピアノ教室に通っており、初等科になってからはなん度か発表会をおこなっているようだ。
今回初めて俺に招待状が来たのはアンナなりに『レックスに聞かせてもいい』と思えるレベルまで仕上がったかららしい。
アンナの中で俺は耳が肥えた人になっているのかもしれない。
そんなことを感じられる逸話はないつもりだが、アンナはたびたびロジックが通じないことがあるので、今回もそういうアレだろう。
壇上でスポットライトを浴びながらピアノを奏でるアンナは美しかった。
長い金髪をきらきらと輝かせ、青い瞳で真剣に譜面を見つめ、真っ青なドレスをまとって熱心に演奏する様子には思わず目を奪われた……音楽はよくわからなかった。
八歳のおねえさんはやはり大人だ。
昔は幼稚園児もかなり大人に感じたものだが、八歳はやはり格が違う。
しかもアンナは今年、九歳になる……その次は十歳だ。二桁……俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。二桁年齢。なんだかそれは想像もつかないほどオトナに思えた。
そうしてピアノの発表会の帰り道、きれいに着飾ったママとちょっといいレストランで夕食をとっていた時、ママから提案があった。
「レックスもなにか習い事する?」
習い事!
思いもよらぬ提案だった。だが、さすがはママ……十歳よりずっと年上の、本物の大人の女性だけある。
なるほど俺は己の精神を律し続けることに苦心していた。なんらかの外的要素がなければ、俺はこの世界を『平和だ』と信じてしまいそうなほどには精神が疲弊している。
その外的要素として『習い事をする』というのはすばらしいことに思えた。だって同級生のシーラもなにかやってるらしいし。俺もやってみたい。あ、いや、精神のためにね。意識の高さがほかの連中とは違うのだ。
こうして俺は漠然と習い事をしようという選択肢を抱いたまま家に帰った。
ぐっすり眠ったら忘れた。
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