静岡の旅館にて3
「あんた、泊まるところはあるのかい?」
お腹いっぱいになり、プリンまでごちそうになった俺に、食堂のおば様はそう訊ねた。
「いや、まあ適当に………」
もうちょいで日付が変わる時間だし、最悪、ネットカフェにでも入るよと言いかけたが………。
「ダメだよ。マンガ喫茶とかそういうところに行っちゃ!」
おば様に先を読まれていた。
「この路地を出て、国道沿いを歩いたホームセンターと公園の隣に小さいけど旅館があるから、そこに行きな。うちの姉が女将をやっているから、連絡しておいてあげるよ」
「ありがとうございます」
「いいってことよ」
美味しいご飯を食べさせてもらって、宿まで紹介してくれるなんて、このおば様には頭が上がらないなあ。
え!? たったそれだけでいいんですか!? あんなにマグロとか中トロとか乗っていたのに!
というお会計を済ませ、店の外まで出て手を振るおば様に見送られながら、俺はまた三島の街を歩き出す。
飲み会帰りのサラリーマンが店先で騒いでいるくらいで、比較的静かでよさげな街だ。
そして、食堂のおば様に言われた通り、国道を少し歩いていくと、ホームセンターが見えてきた。
その側には、旅館の屋根や庭の大きな松の木が見える。
オレンジ色に淡く光る入り口に向かって歩く、こんな時間だし、ちゃんと対応されるか不安だなあと思っていると、何か聞こえた。
ブンッ! ブンッ!
「はっ! ………ふっ! ………はっ!」
ブンッ! ブンッ! ブンッ!
旅館の出入り口の明かりの近くで、バットを振る音。
しかも、若い女の子の漏れ出すような声に合わせて、バットが風を切る音が幾度となく聞こえていた。
「こんな時間まで精が出るねえ」
俺がバットを振る主に声を掛けると、その女の子がぎょっとした表情をした。
それも仕方ない。もうすぐ日付が変わろうかという時間に、見知らぬ男に声を掛けられたのだから。
逆の立場だったら、俺だってぎょっとする。
しかし、それ以上にその女の子のスイングフォームが気になって仕方なかったのだ。
「君、そんな振り方じゃダメだ。いくらこんな時間まで練習しようとね。時間のムダってやつさ」
俺がそう言うと、ぎょっとしていた彼女はむっとした表情になった。
「なんですかっ、あなた!一体どういうつもりでそんなことをっ………」
旅館の庭先で声を張り上げた彼女に、俺は人差し指を立てる。
「す、すみませんっ………つい」
彼女は慌てて自分の口をつぐむ。
「でも、その気持ち分かるよ。試合で打てなきゃ悔しいよな。眠れない程によ。野球が好きなら、尚更な」
「どうしてあなたにそんな事を言われなきゃ………」
俺がそう言うと、むっとしていた彼女は、ぐすっとした表情になった。
面白い人を見つけてしまった。
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