実況!4割打者の新井さん

ぎん

JKよ、俺に声を掛ける暇があったら、早く学校に行きなさい。

行ってきますと家族に告げて家を出るのはいつものことだけれど、これほど高揚し、緊張しながらビクトリーズスタジアムまで真っピンクの愛車を走らせたのは生まれて始めてだった。




いつも球場入り前に利用しているソフトクリームが美味しいコンビニをうっかり通り過ぎてしまったくらい。




道もわりと混んでいたし、慌てて戻るなんてことはしなかったけれど、1キロ離れた別のコンビニに行っても………。



「今日が現役最後の試合なんですよね! 頑張って下さい!」



などと、スカートから伸びた程よいムチムチ具合の太ももが素晴らしいJKに熱烈な言葉をもらえることが出来るんだから、これほど野球をやっていてよかったと思える日はない。




コンビニで買い物している間にも、1人に握手したまた1人。にこやかにお礼を言ったらまた別の方から声を掛けてもらえる。




しかしそんなことを味わえるのも今日で最後かと思うと、いつも食べているソフトクリームの味もちょっとだけ感慨深いものになっていた。










「北関東ビクトリーズファン、そして全国のプロ野球ファンの皆様。ついに……ついにこの瞬間が来てしまいました。




今年60歳になりました伝説の右打ち職人、右打ちの神様。新井時人が現役生活最後の打席に入ります。




メジャーリーグでの2年間。



デビュー3年目には、大阪で行われたオールスター戦での悪夢。



それからの空白の5年間もありました。



本当にたくさんのことがありました。それも今日で最後。チームカラーであります、ピンク色ユニフォーム、ピンク君のバット。ピンク色のアームガード、バッティンググローブ、フットガード。ピンク色のロングパンツ。




それらを身につけて、打席に立つ彼の姿を見るのも今日で最後になります。




しかし、引退試合はただの試合にはなりませんでした。


3勝3敗で並んだ東京スカイスターズとの日本シリーズ第7戦。


雌雄を決する試合の延長15回裏、同点の2アウト満塁。1打サヨナラ、日本一という場面で監督自ら。新井時人が自らのバットで決めれば最後となりましょう、右バッターボックスに入ります」





これほどまでに、自分の体から発せられる鼓動が聞こえた打席は今までにない。





この歳になっても、これだけのキャリアを積んでも、俺はまだ緊張という感情からは逃れられないのか。





周りを見渡せば4万人を越える観客がいて、ベンチを見れば苦楽を共にしたチームメイトがいて、スタンドには妻と2人の娘、そして遠い欧州の地から、息子も見ていてくれているだろう。




今まで世話になった歴代の監督、コーチやトレーナー。先輩、後輩。グラウンド以外でも家族や友人、宇都宮という街の人に、たくさんの野球ファン。



もちろん、シャーロットのファン達も。



数えきれない程の人達のことを思い出す。




緊張してるとか感じていながら、こんなプロ野球の、シーズンの大トリの場面でそんなことを思い出す余裕があるくらいに実は落ち着き払っているとも言えるのかもしれない。




ともかく、どんな結果になろうとこれが最後の打席だ。




頬を流れた一筋の汗で我に返りながら、自分でサヨナラを決めれば、プロ野球選手としての終わりを迎えることになる打席。



絶対に決めてやる。最後に日本一の栄光を手にしてキャリアを終える。


アウトコースのボールをスパーンと流し打ちして、ライト前に打球を弾ませ、1塁にヘッドスライディングをして試合を決める。


俺はそんなイメージを持ちながら、いよいよその場所に足を踏み入れたのだ。






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