帰還世界編
第32話 微笑み
足を踏み入れたら、そこは別世界だった。
前からここは神聖にして、神域。
銀色の髪を持つ少女がいるだけで、ここは息を呑むほど美しい場所になる。
だからだろうか。
ここの雰囲気や少女の境遇を思えば、苦手だったのに、
何度も足を踏み入れ、少女と言葉を交わし、
この空間に魅入られられていたのは。
しかし、それも今日で終わる。
「……」
わざと足音を響かせる。
すると、少女がゆっくりと振り返る。
驚いたのも一瞬で、少女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、
胸の辺りに、両手を重ね合わせる。
「……おかえりなさいませ」
荘厳な雰囲気すら纏わせ、少女はこちらを迎え入れてくれる。
「勇者様」
迎えてくれるその声は、確かに聖女のものだった。
* * *
「勇人、終わった?」
「…………梓」
話を終えた俺は、長椅子に腰かける梓に声をかけられる。
一見、梓に変わりはない。
睡眠過剰症候群の患者は皆そうだと先生が言っていた。
だけど――
「勇人、一つ聞いていい?」
「ああ」
「なんで、ばれたの?」
梓が睡眠過剰症候群の初期段階だと診断を受けた。
家族には後で話を付けるらしい。
「確かに体調は悪いように見えたかもしれないけど、それだけって訳じゃないでしょ?」
「…………」
「今がいつかって聞いてたけど」
「…………」
「あれが初期段階を見抜くコツ?」
梓は普通に西暦を答えた気になっているかもしれない。
自覚もない。
「梓」
「?」
「梓が言ってたのは西暦じゃない」
梓が口にしていたのは、
「ただの文字羅列だ」
たとえば、睡眠過剰症候群の患者と健康な人間に、全く同じ質問をする。
計算でも食べものの名前でも、それこそ西暦でもいい。
健康な人間は計算の答えを口にする。
患者も同じように口にする。
ただし、この質問は間違えようが正しかろうが大して重要ではない。
問題は、答えが答えになっていない場合である。
『1足す1は?』
『2』
と答えが返ってきたとして、患者の場合は、
『1足す1は?』
『あkgfはた』
――ふざけているわけでも酔っているわけでもなく、
患者本人はあくまで真面目に答えを述べていると考えているのだ。
勿論、全部が全部、初期症状を表しているのかといえばそんなことはない。
あくまで目安の一つだが、
それでも、一つの指標にはなる。
実際、勇人も目覚めた直後、西暦を問われ、答えられなかった。
ただ、先生は答えられなかったことよりも、文字の羅列を口にしないことに安堵していた。
「そうなんだ……」
ポツリと呟いた後、ぼんやりと何かを考えている梓に対し、
もう一度『梓』と呼びかけた。
けれど、反応がなく、もう一度『梓』と呼びかけようとして、
「勇者様」
酷く懐かしい声が聞こえた気がした。
声は梓のものなのに、その音は俺の中で酷く懐かしさを覚えるものだった。
「勇者様、お久しぶりです。お元気でしたか?」
梓の姿で、梓が普段しない透明な声で、
「旅の道中、様々なご苦労があったと察します」
話しかけてくれるその人を、俺はよく知っている。
「ですが、こうしてお会いできたことをとても嬉しく思っております」
喜びに満ちた儚げな微笑みは、梓のものじゃない。
それは紛れもなく、
「勇者様」
『聖女様』のものだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます