39 ICUと書かれた扉
京子が売店から戻ってくると、その状況が一変していた。
彩乃の病室である入口付近が、行き交う看護婦たちにより騒然としていのである。
目にしたその光景に、京子は思わず早足になり駆け寄った。
と、そこには、騒ぎの中廊下にはじき出されてしまったしずかと目が合う。
ぽつんと一人だけの彼女は、京子が近づくや否や、助けを求めるようなそんな眼差しを向けたのだ。
見れば、口元を押さえていた指先が、震えているのがはっきりとわかる。
「しずかさん、いったいどうしたんですか? 何があったんです?」
恐怖で震えあがったしずかの姿を見た京子は、自ずと彩乃に何か異変があったことに察しがついた。
それでも、それを目の当たりにしたであろう本人の口から情報を得なければと、京子が必死に問う。
「あ、彩乃が……彩乃が……彩乃が」
半ば放心状態でもあるしずかは、背中を丸めてガタガタと震えながら、彩乃の名前を連呼するだけだった。
いつも凛とした態度の彼女らしからぬ姿に、京子はただならぬ事態になったのだけは理解する。
そんな二人を余所に、慌ただしく駆け回る看護婦たちは、機材の運び込みで駆けまわる人。「親御さんに連絡は!」と言って指揮をとる人もいた。
中には「早く、医院長はまだなの」と焦りの声も聞こえてくる。
京子は廊下から中の様子を知ろうと覗き込んでみるが、この位置からではどうやっても見えなかった。かといって中に割って入ることなど許されない。
この場を離れて売店へ行ってしまった自分に後悔し、その気持ちが焦りを募らせる。
震えてばかりいるしずかの肩を掴み取り、京子は強く握りしめて意識を自分へと引き寄せた。
「ねえしずかさん! 彩乃ちゃんがどうしたっていうの!」
強く体を揺らされたしずかは、ハッと我に返った。直後、今にも泣き崩れそうな顔で京子に訴える。
「き、急に彩乃が、苦しみだして……それで、血吐いて、意識が、無くなって――」
しずかは大粒の涙を流しながら、嗚咽とともに断片的な言葉を並べていった。
それでも、京子には十分に理解できた。
一つ一つの言葉に頷きながら聞き入れて、優しくしずかの頭を包み込んだ。幼い子供をあやすように。
彩乃が何の前触れもなく吐血した。それを見て異常だと気付いたしずかが、すぐに呼び出し釦を押したのだ。
吐血のせいで咳込み、ベッドに伏せて苦しむ彩乃。その時しずかは何も出来なかった。
唸りと共に苦しむ彼女の姿は一瞬で、あっという間に意識が無くなり、うつぶせのまま動かなくなってしまった。
しずかの必死の呼びかけにも、瞳を閉じたまま反応がなかった。…………と。
「うそ! ……そんな」
京子は驚き、口を両手で押さえて瞳を潤ませる。
確かに今の彩乃は、以前のような健康的な姿ではなくなっていた。
一向に良くならない病状は、長い闘病生活を強いられている。抗がん剤治療のせいで頭髪は抜け落ちてしまい、それを隠すためニット帽をかぶっている。
頬はこけ落ち顔色もよくはないその姿は、以前の健康体である彼女を知る者にとっては、見るに堪えがたい姿ではあった。
それでも彩乃は、明るく気さくに振舞っていた。面会に来てくれた友人に、バウムクーヘンを一緒に食べようと言い出したくらいである。少なくとも、今すぐに病状が変化したり、大事には至らないだろうと思わざる得なかった。
「それって、私達と、バウム食べたせいなのかな。それで、急に……」
「バ、バカ! 食べたいって誘ったのはあいつだぞ!」
「……でも、やっぱり、無理してたんですよ。私達に気を使って、明るく振舞って」
「チッ! ……そうかもな、アタシたちに気を使わせまいと、相当無理していたんだろうな……畜生!」
しずかは頭を掻きむしり後悔する。京子もまた胸を締め付けられる思いだった。
間もなくして白衣を着た男の医師がやって来た。脇目もくれず駆け足で病室内へと入っていった。
おそらく彼が医院長なのだろう、慌ただしかっただけの空気が、一瞬にして緊張の糸が張られたのだ。
そしてすぐに、彩乃は医院長達に囲まれたベッドごと集中治療室へと運ばれていく。
「あのっ! 彩乃は、どうなんですか! 大丈夫なんですか!」
としずかが、一番最後に病室から出てきた看護婦を呼び止めた。
「――あっ、お友達の方ね。正直、わからないわ。呼吸も脈も弱くなってるし、今は何とも言えないの。ごめんなさいね、急いでるから」
そう口早に言い残し、看護婦は先に行ってしまったベッドを追いかけていった。
「……彩乃ちゃん、大丈夫でしょうか」
「あいつならきっと大丈夫だ、そう簡単には…………海斗の野郎ともっといちゃいちゃしなきゃだしな、それがしたくてずっと彩乃は頑張って来たんだ。すぐに何もなかったような顔して戻ってくるさ」
「そうですよね。彩乃ちゃん、そう簡単に諦められませんよね……だって、まだ海斗君との関係、始まったばっかりじゃないですか」
「ったりめえだろ! こんなところでくたばっちゃあ、死んでも死に切れんだろが」
「――あ! とにかく私、海斗君に連絡します」
「ああ、そうした方がいいな、頼む」
◇◆◇
休憩時間の終わりに海斗へメールを入れたのは京子だった。
その内容を目にした海斗は、頭の中が真っ白になる。
すぐさま会社を飛び出すと、相川病院へと車を走らせた。
集中治療室の前にはしずかと京子、そして彩乃の母親である和恵の三人が悲痛な面持ちで座っていた。
海斗は駆け寄り、和恵に状況を訊く。
「私も、ついさっきここに来たばかりで……状況の説明は先生から聞いたけど、あんまり良くないみたいなの」
その言葉を横で聞いていたしずかが声を荒げて言う。
「アタシたちのせいなんだ! バウムを一緒に食べなかったら、こんな事には――」
そこまで言うと、突然和恵が声を張りしずかの言葉を遮った。
「違うのよしずかさん! こうなることは、もう時間の問題だったの。だから、そんなに気負いしないでね。あなたたちのせいじゃないのよ」
しずかをなだめるように和恵が言うと、彼女はそのまま泣き崩れてしまった。
京子はただ横で黙って俯いているだけだった。
まさか自分が買ってきたバウムクーヘンが、事態の引き金になっていただなんて。
思いもよらぬしずかの証言に、海斗も自己の責任を感じてしまった。
いやそれよりも、むしろ昨晩。そうあの夜に彼女の体に無理をさせてしまった行為が原因かもしれないと考え至ってしまう。
とにかく、彩乃が深刻な事態だということは、彼女たちの表情から察しがついた。
海斗は大きくICUと書かれたガラス張りの扉を見る。
あの中で、懸命な治療が行われているのだ。進行したがんの治療には、どのような手法を用いるのかわからない。それでも医師達の治療技術を、こうして信じるしかないのだ。
そして、彼女の生命力の強さ、生きたいと思う信念に賭けなければならない事実。
ただこうやって、離れた場所で神に祈る事しか出来ない自分の力の無さに、むなしさを覚える。
せめて彼女の側で、彼女の顔を見ながら励ますことができたらと、切に願ってしまう。
非情にも時間だけが過ぎてゆく。
沈黙のみが、この空間を支配していた。
そして、ただじっと待つ海斗達の元へ近づく影、カツカツと靴音を立てて歩み寄る男がいた。
「状況はどうかな?」
落ち着いた声でそう言いながら近づいてきた男は、折りたたんだ白衣を片腕に持った黒いスーツに身を包んだ姿。
紛れもなく彩乃の父親。信之だった。
「……あなた」
和恵は信之の顔を見上げると、今にも泣き崩れそうな顔で言った。
信之も彩乃の状態を聞きつけて飛んできたのだ。父親なので当然ではあるが、あまりにも落ち着きを放ちすぎていた。不思議なほど違和感がある。
「ふむ、その感じだと、あまり状況は良くなさそうだね」
まるで傍観者のような淡々とした信之の口調。その言葉で真っ先に苛立ちを覚えたしずかは、信之に向けて鋭く睨みつけた。
「――てめえ、何能天気なこと言ってんだ、ふざけんな」
歯をむき出し、明らかな敵対心を見せるしずかに、
「おー怖いねぇ、お嬢さん。こう見えて、私もかなり急いでこちらに向かったんだが、運の悪いことに、少々道が混んでいてね、結果この時間になってしまったという訳だ」
と、言い訳をする信之。だた、随分と上から目線の言い方だったため、それが癪に障ったしずかは、一歩も引かずに噛みつく。
「チッ、貴様、父親だろうが。娘が血ぃ吐き出して倒れたんだぞ、すげえ心配じゃねえのかよ」
「……勿論、心配してるよ、心底ね。でも、私は相川医院長を全面的に信用しているから、必要以上に焦ることは無いさ。彼は日本一腕の良い医者だ、必ず彩乃を助けてくれると信じている」
「ったりめえだろ! ふざけんな! そうじゃなきゃ、アタシも困る……」
そこまで言って、しずかは目を伏せて黙り込んでしまった。目尻に溜まった涙を袖で拭き取る。
信之はスーツのポケットから携帯を取り出し、画面を確認した。
「ふむ……」と、ため息にも聞こえるような呟きをすると、
「そうか、もう少し時間がかかる、らしいのか……ふむ、そうだな、じゃあ海斗君」
信之が携帯の画面を見ながらブツブツと独り言を言い、悩んだ素振りから顔を上げると海斗に向かって話しかけた。
「あ、はい」
「君と、お話したいのだけど、ちょっとだけいいかな? この場は和恵たちに任せておいてさ」
「それって、どうしても今、ですか?」
「うん、勿論……そうだな、海斗君だけに話したい内容だからね、場所を変えて二人だけね」
……一体なんのお話?
こんな時に、なにもこんな一刻を争う大変な時に、この状況以上に必要なことなんてあるのか。それも二人だけで秘密の話って?
と、ここに居る誰もがそう疑問に思った。勿論、名指しされた海斗は当然、片時もこの場所を離れたくなかった。
この父親の話を聞いて一体何になるというのか。
世間的には医学界の権威であり、同世界の人たちにしたら、ものすごく偉い雲の上の存在なのだろう。
だが今この場ではただの父親だ。ちっぽけな一人の父親。
その父親は、普段は娘との確執があり、信用の置けない存在となっている。
そんな信之からの誘いに、海斗が応じる理由など全く無かった。
だが、
「……はい」
と、海斗は了承したのだ。
「ありがとう海斗君。じゃあ、この前のファミレスにでも行こうか。そこで話しをしよう」
信之は海斗を連れて、この場を離れていった。
彼らの姿を目で追うしずかと京子は、どうして今なの? と、怪訝に思うめで睨む。
母親の和恵は黙って床を見つめているだけだった。
なぜ海斗は彼の誘いに応じたのか。
それは、海斗の目に映った信之の表情が、目が、何か大切な事実を伝えたい……。
そう、言っているように思えて仕方なかったのである。
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