18 幼馴染の寝顔


「ふう、やっと終わったぁー」


 提出用の論文が完成した彩乃。

 両腕をめいっぱい伸ばし、上体を斜めに反らし屈伸をする。


「んんーーっ!いててっ」


 ずっとパソコンに集中していたせいで、体中がカチカチに。足は痛いし肩も張っている。


 彩乃は自分の肩を揉みながら、ふとディスクトップの時計表示を確認すると、もう23時を回っていた。

 

「あーやばい、もうこんな時間! ねえカイ、これから終電まにあうかなぁ?」


 と、海斗に訊ねるも返事はない。


 ふむ……と、彩乃は記憶を辿る。

 最初正面に座っていた海斗は、暫くしてから立ち上がり、そのあと本棚から何かを持って……

 ベッドに視線を移せば、文庫本を片手に目を閉じている海斗の姿が。


「ん!……カイ……あれ? 寝てるの?」


 呼びかけたが、先ほどと同様に返事は無い。


 仕方なく彩乃は、シャットダウンしたノートパソコンをパタンと閉じた。

 さっと参考資料をまとめてリュックに詰め込んだ。


「もう、そのまま寝ちゃうなんて、子供みたいなんだからっ……でも、疲れたのかな?」



 今日の海斗は、ほぼ彩乃のわがままで行動を共にする事となった。そして、まさかの動物園までお付き合い。


 そもそも彩乃の掲げた目標が、論文を仕上げてから海斗にお願いして出掛ける予定だった。

 しかし、現実はそう上手くはいかない。

 待ち合わせのコーヒー店で海斗が姿を現せば、パソコン入力に全く集中できなくなってしまって。

 それどころか考えが全然まとまらず、作文など到底出来そうにない状態に。

 気持ちがそうなってしまった以上、もう仕方がないと諦めて、自分の欲望に素直になる。


 彩乃は、動物園に行きたいと海斗にお願いした。



 そう、幼馴染とのデート。

 彩乃の人生で初のデートだった。


 彩乃は、今まで幾人かの男子から告白されたことがある。

 だが、その全てを断ってきた。


 中には、学園のアイドル的存在のイケメン男子からのお誘いもあった。

 そうなれば、他の女子からは疎まれ、妬まれて。

 彩乃自身、イケメン男子には何の興味も無かった。ただ付き纏われて迷惑なだけなのにと。

 後日、みんなの前でキッパリと振った。なぜかとても清々した。



 でも海斗は違ったのだ。

 ずっと好きだった幼馴染。

 偶然出会った幼馴染に、運命を感じてしまう。

 そう、こんな気持ちになるのは海斗しかいなかった。



 動物園は久しぶり。上野動物園は初めてだった。凄い人。

 初めて間近で見るパンダはとっても可愛かった。迫力があった。

 他の動物たちも可愛いかった。特に、キリンさんはキュートで大好き。


 凄く楽しかった。でも……


 体調が悪くなって、海斗に気を使わせてしまった。

 ベンチにうずくまり辛そうな彩乃を、ずっと見守ってくれていた。



 帰りの運転では、具合の悪くなった彩乃を乗せて、早く帰り着かなければと気を張っていたのだろう。

 加えて渋滞のイライラと闘わざるを得なかったので、海斗にはかなりの心労が募っていたはずである。



 部屋にあがってからも、海斗は彩乃の体調を気にしていた。

 本来なら真っ先に帰宅させて、ゆっくり休ませたいと思っていたようだ。


 論文完成を優先したいと言った彩乃。それを邪魔しないようにと、海斗は読みかけの本を手にベッドへ寝転んだ。

 今日の疲れと共に、静かな一人住まいの部屋にカチャカチャとキーボードを打つ音がとても心地よく耳につき、睡魔が襲う。

 寝転んだ海斗は、殆ど本を読み進められずに、眠りについてしまったのだ。




 一通り荷物をまとめ帰り支度を整えた彩乃は、海斗の眠るベッドへ近づいてみる。


 仰向けで読んでいたと思われ、ページが開かれたまま胸板の上にかぶさっていた。

 その本の表紙には『マジックソード・ブレイクス』と書かれていた。

 ちょっと不思議なタイトルと、首を傾げた彩乃。表紙の絵柄からの推測で漫画だろうと思った。


(ん? この絵の女の子って……どこかで……)


 剣を構えた女の子の絵。

 体の露出が多い戦闘服らしき姿は、どこかで見たような気がした。


(そんな! ……まさかね)


 偶然とはいえ意表を突かれた。

 表紙絵の少女の服装は、夢の中に出てきた「アヤノ」と名乗る女性に似ていたのだ。


 ただし、あれは自分が創り出した夢の中の自分。


 夢であれば自分がどんな姿に変身しようとも何も不思議ではない。

 夢の中の「アヤノ」の言った内容がはっきりとせず、所々信憑性が無いのも夢特有の現象であろ。

 ただの夢、特に気にしたところで人生が変わるものでもないと彩乃は考えた。 


 しかし、見れば見るほどセクシーなコスチュームの表紙絵。

 こんな服装は、どうやったって彩乃は思いつかない。


 おそらくだが、海斗の持っているこの漫画は人気のあるお話か何か。人気があれば秋葉原のお店にポスターが貼られていて、それを見た記憶が夢の中に。

 あるいは、テレビでアニメ化もされていて、たまたまそれを見たことがあり、潜在的に記憶が残っていた。

 きっとそんな感じにすぎないと彩乃は思ったのだ。


 ただ偶然が重なっただけ、あまり深く考えないようにする。


 絵柄はオタク好きしそうな本で、これといって興味は湧かないのだが。

 どういったお話なのかだけは、いつか海斗に訊いてみる。




 ……それよりも、今は眠ってしまった海斗をどうするかである。


(起こすの可哀そうな気もするけど、黙って帰っちゃうのもアレだしね……)


 悩んでいても仕方が無い。無駄に時間が過ぎてゆくだけ。

 彩乃は意を決して、小さな声で「カイ」と一言。


 …………何の反応も無い。


 どうやらぐっすりと眠っているようなので、そろりと彩乃は近くに座った。

 そして顔を近付けてみる。


 すーすーと気持ち良く眠る海斗。

 これだけ近寄っていても、起きる気配が無いのなら、本気で寝てしまっていると彩乃は確信する。


(んー、どうしようか……困ったなあ)


 昔ならこの状況だと絶対に悪戯してしまう彩乃だったが、今日は自分の為に頑張ってくれた幼馴染に嫌な思いはさせたくない。

 できれば朝まで寝ていてほしいと思う。


 薄茶色の瞳が、じっと海斗の寝顔を見つめる。


 間近で見る海斗の顔。うっすらと伸びてきている髭、ツンと突起した喉仏、太くて頑丈そうで温かい指。


 どれも男らしく成長した幼馴染に、思わず指が触れそうになる。


(……いけない! 触れたらカイを起こしてしまう)


 だが自分の指は、意に反して止まってはくれなかった。

 すると、


「んんーんー」


 海斗の喉から唸りが聞こえた。


 ハッとした彩乃。

 あともう少しで触れようとしていた指先を、慌ててひっこめた。ドキドキする。


(――びっくりした。起きて……いないわね)


 心臓の鼓動がどんどん大きくなっていくのがわかる。

 

 海斗が起きる様子はない。再び彩乃の手が海斗の顔へ。


(……ちょっとだけ)


 悪戯ではないが、どうにかして海斗に触れたい彩乃。

 もう、自分の欲望を抑えきれない。

 

 無抵抗な姿を晒す幼馴染だったが、いきなり抱き着く行為などとても出来ない。

 少しだけ、ほんのちょっとだけ海斗に触れてみたい欲望。

 そう思えば思う程、顔が熱くなる。鼓動が更に加速する。


 恐る恐る、海斗の鼻先を指でチョンと触れた。


 海斗は「う~ん」と唸り、そっぽを向いてしまった。

 

(――あっ!)


 しまったと思った彩乃。海斗の寝顔はこっち側ではなく向こう側に。

 ちょっと嫌われちゃったとガッカリするも、よく見れば目の前にはもっと無防備に晒した頬が。

 

 薄茶色の瞳に映るのは、少しこけた髭交じりの頬。

 それしか目に入らなかった。


 もう、彩乃の頭の中は……


 

 気が付けば、自らの唇を、

 幼馴染の頬に押し当てていた。


 再び「うう~ん」と唸る海斗。


「ーー!!」


 彩乃は慌てて、スッと顔を引いた。唇を抑えながら。


 海斗は唸りながら、唇を押し当てた頬をポリポリと掻いていた。そして、


「……パンダ5センチ蒸しといて……ピラルクはかるから……」と海斗が寝言を。


 全く意味不明。

 考える間もなく、可笑しさが込み上げてきた彩乃は、


「ププッ!!」と豪快に噴き出した。


 意味のわからない言葉が、頭は中で繰り返されると、余計に笑いがこみあげてくる。


「ムははは、はぁぁーー可笑しいぃーー、クッッ!」


「んあ?」と海斗が起き上がった。


「あぁ、ごめんカイ。起こしちゃったね……クックックっ」


 目尻の涙をぬぐいながら、彩乃は必死に笑いをこらえていた。


「え? あや、何がそんなにおかしいの?」


「だってー、カイったら、その顔」


 照れて真っ赤になった顔を、笑いながら誤魔化す彩乃。


 状況が飲み込めていない海斗は、未だ眠気眼で彩乃の様子を目で追っている。

 半目開きの間抜けな顔が、更に彩乃のお腹を苦しめた。


「いひひ……降参、降参! もうお腹痛いってばぁはっはー」


 手をひらひらとさせて、横っ腹を抑えながら彩乃が降参していた。

 何故か判らずに勝利を掴み取った海斗。彩乃に勝ったのは初めてかもしれないなどと、覚醒しきれていない頭にぼんやりと浮かんでいた。



「はぁー可笑しかった」


 ひとしきり笑い終えた彩乃は、未だ熱が冷めない顔面を、海斗に見られないようにくるりと反対を向いた。


「あっ……と、もう、終電になっちゃうから、そろそろ帰るね」


 心拍が上がったまま、治まる気配が無い。

 彩乃はそそくさと荷物に駆け寄り、リュックを手に取った。


「え、もうそんな時間なの?」

「う、うん」


 海斗は壁の時計を見る。「あー」と一言。

 

「じゃ、家まで送るよ。もう遅いしさ」


「ううん、いいよ、電車で帰れるから……じゃあ、また連絡するね」


 リュックを背負い帰り支度を整えた彩乃は、さっさと玄関にむかう。

 心臓のドキドキと顔の火照りはまだ継続中。海斗に背中を向けたまま彩乃は深呼吸した。

 海斗はベッドから起き上がると、テーブルに置いた自動車のキーを掴み取った。


「いや、駄目だ。夜道は危険だよ。それに、また具合悪くなるかもしれないし、そしたら困るだろ? 一人じゃ危ないって」


 海斗は急いで彩乃の元へ向かうと、「な? 送るよ」と言って彩乃の顔を覗き込んだ。


「あれ? アヤどうしたの? 顔真っ赤じゃん」


 海斗にじっと見られると、肩を窄めて固まる彩乃。


「あっ、わかった! 今度は熱が出ちゃたのか? 大丈夫?」


「ち、違うわよ! 熱なんか無い! 元気よ元気、この通りピンピン!」


 海斗は更に顔を近付けて彩乃をジロジロと見た。

 そんなに近づかれたら心臓が飛び出てきちゃうと、彩乃はのけぞって視線を海斗から外した。


「本当? じゃあ何だろうな……アヤのことだから、僕の顔に悪戯しようとしていたのかもしれないし……」


 ドキリとした彩乃。悪戯も考えなかったわけでは無いのだが、それよりももっと凄いことをやってしまった。思わず目が泳いでしまう。


 顎に手を当てて、横目で彩乃を見つつ真剣に考えだした海斗。


「もう! なんでもいいでしょ、そんな事。もう帰るね」


 頬にキスをした答えにたどり着くとは思えないが、それでも言い当てられないかと彩乃は内心ハラハラしてしまう。

 小刻みに肩を揺らしていた彩乃は、唇に手を当ててそっぽを向いた。


「あぁ、そっか、わかった! お腹空いたんだ」


 彩乃は思わず「はあ?」と顔をしかめる。


「ずっとパソコンに集中してたんだし、無理もないよな。それで機嫌悪くなったとか」

「――!」

 

 あまりの見当違いの答えに、目を見開いてしまった彩乃。

 キスしたことを言い当てられずにホッとするも、なんだか逆に怒りも込み上げてきて、


「もうっ! カイのバカッ!!」と一言。


 口をとがらせてツンとする彩乃。腕組みまでして怒った様子。

 彩乃の背中で「へ?」と情けない声をあげた海斗は、頭をポリポリと掻いていた。


「しゃあないなあ……じゃあ、お詫びに、送ってもらおうかなぁ、カイの車で」


「あ、うん、そうさせて下さい」


 何のお詫びか判らず、くびを傾げる海斗。とりあえす許してもらえそうなので、敬語を使い素直に従う。


 なんとか怒りも収まり、顔の火照りも治まった彩乃は、目を細めてニイと微笑んだ。

 海斗も笑顔を返した。


「あー、アヤ、小腹空いちゃったなあ。ねえ、コンビニでなんか買ってこうよ、カイのおごりで」


「う、うん、オッケー」


 暗闇の中で軽いエンジン音が鳴り響き、彩乃の家に向かって発進していった。

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