15 もう一人の「アヤノ」
あれからしばらくの間、彩乃は動物園のベンチで休憩していた。
海斗は側に座り、回復の様子を見ている。
ある程度が経ち、彩乃の顔色は徐々にもとに戻ってきた。
体調も少し回復したと思われた頃に、彩乃はスクッ立ち上がり海斗の前に立つ。そして車に戻ると言い出したのだ。
海斗を見下ろす形で仁王立ちする彩乃。顔を起こして視線をあわせた海斗は、それでも彼女がまだ本調子では無い事など見てすぐに分った。
「アヤ! まだ具合悪いんだろ? 無理をしないほうがいいよ」と引き留めてみたが、頑として聞き入れてはくれなかった。
「これ以上カイに時間を使わせるの勿体ないし、……それに、ほら! 論文まだ完成していないから、急いで戻らなくっちゃ、ね」
もと来た方向へふらふらと歩きだした彩乃。未だおぼつかない足取りの彼女に見かねた海斗は、駆け寄るとそっと腰に手をまわす。
「――あっ、ありがとう」
「いや、……転んで怪我でもされたら大変だろ? それに、早いとこ車に戻って涼んだ方が良さそうだし」
昼下がりの時間帯で未だ日差しは強かった。
休憩していたベンチは木陰になっていてある程度涼めたのだが、コンクリートの歩道で歩いている今は、照り返しもあり高熱に晒される。
日傘があればまだ良かったのかもしれないが、そんなものは用意すら思いつかなかった海斗。今できる最善策といえば、一刻も早く彩乃を日光から遠ざける事である。
ただし、少しふらついている彼女の歩くペースを上げる事など出来ない。
歩く彩乃をサポートしつつ、確実に自動車へと近づいていければそれでいいと、海斗は焦る気持ちを抑えながら、自分に言い聞かせていた。
無事に車まで戻ると、軽く背もたれを倒した助手席に彩乃を座らせた。
すぐさまエンジンをスタートさせた海斗は、高温になった室内の空気を入れ替えるために、窓ガラスは全開、クーラーを最低温度にセットした。
カーコンポからは、相変わらずのラジオの音が流れている。
「……CD買っておいてって言ったのに、カイったらねー」
「しつこいなぁ、何買っていいかわかんなかったから……ってさっきも言っただろ」
そう、動物園に来る前にも、そんなやり取りをしていた二人。なので彩乃は、
「だから今度、アヤが一緒にCD選んであげるわよ。ね、それならいいでしょ?」
「ああ……うん、まあ……その時は、よろしくたのむよ」
「オッケー。じゃあ、約束よ。絶対ね!」
そう言うと彩乃は背もたれに深く寄り掛かり、満足げな表情を見せていた。瞳はうつろで息は荒かったが。
もしかすると論文作成に追われていた彩乃は、ここ数日間ろくに眠れていないのではと思い始めた海斗。
暑さのせいで蓄積された疲労が、目に見える形となって表れたのだと。
「とにかく。直ぐに家へ戻るから、アヤは着くまでゆっくりと寝ててよ」
もしも寝不足が影響しているのなら、帰宅までは休ませてあげたいと海斗は考えた。
「……ああっ! そう言って、油断させて。寝てる隙に、襲っちゃおうって魂胆ね」
「バカか!」
彩乃は「ふふっ」と微笑んだかと思えば、すぐに目を閉じて寝てしまった。
静かに寝息を立てる彼女を見た海斗は、ふぅーと息を漏らす。
とりあえず、今のところ大事に至らずに一安心。
助手席に静かに眠る彩乃。シートベルトを掛けてあげた海斗は、クーラーも寒くなり過ぎないように調整した。全開にした窓ガラスも閉めていく。
海斗は赤い軽自動車をゆっくりと発進させて、彩乃の自宅へと向かい走らせていった。
◇
◇ ◇
◇ ◇ ◇
ここは真っ白な空間――
どこまでも真っ白な空間。
そこにポツンと一人、彩乃は突っ立ていた。
と、そこへ……
『――――あら、お久しぶりよね。彩乃さん』
突如、意識の外から掛けられた声に驚く彩乃。
気が付けば目の前に、セクシーな戦闘服姿の女性が立っていた。腰には一本の剣が鞘に収まっている。
「――――!!」
『あれ? どうしたの? そんな顔しちゃって』
首を傾げて薄ら笑いを浮かべている女性。
だがその顔には、見覚えがある。
『ヤダっ、もしかして暫く会わないうちに、私の事忘れてしまったのかしら?』
とてもよく知った顔だ。――とくに特徴のある薄茶色の瞳。
……だからだろうか、考えれば考えるほど目の前の女性の正体がわからなくなる。
「……あなたはいったい誰?」
『うーん、それなりには覚悟していたんだけどなぁ……本当に忘れられると、マジで結構ショックよねぇー』
「…………」
『――――まあ、それも仕方ないか。ついこの間まで、あなたは私だったし、その逆でもあった訳だしね』
「――えっ!」
そう言われて傍と気が付く。
目の前の女性は、紛れもなく自分の、彩乃自身の顔や姿だった。
特徴的な瞳の色も、背丈や喋り方、声や仕草までも。
ただ、一つだけ違うのは――――
綺麗に揃った胸がある事。
立派な左胸が、その存在を主張している。
セクシーなコスチュームのせいで、谷間やはみ出した乳房が明らかに判る。
『私はもう一人のアヤノ。あなた自身なのよ、どう? 思い出した?』
(……思い出す?)
そう言われるも、戦闘服に身を包み、剣一本を携えた人物など自分の記憶の中にあるはずがない……多分。おそらく。
目の前の『アヤノ』と名乗る人物を見ても、何一つ記憶に引っかからなかった彩乃は、あんぐりと口をあけたまま首を横に振った。
『……そう、なら仕方が無いわ』
残念そうに両手を上げてがっかりした気持ちを表すもう一人のアヤノ。
『だったら、無理に思い出さなくてもいいわ…………今はね』
「…………」
『ただね、これだけは覚えておいてほしい、かなぁ』
アヤノは腰に付けた剣を抜くと、彩乃の目の前にかざした。
『それはね、あなたの心と、あなたの体が弱くなるに従って、私の存在が徐々に大きくなっていくの。本当よ。
でも、今のあなたは、そのどっちが弱まっているのか、私には分からないわ。
でもね、こうして再び会えたんだから、もしかすると……また何かの前兆かもしれないのよ。
あなたに会えて私は嬉しいけど……あなたは、十分に気を付けたほうがいいと思うわ。特に体の事は……
これ、私からの忠告ね』
一方的に説明と忠告を告げるアヤノに納得がいかなかった彩乃は、
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
『ん?』
「見た目はアヤ……自分とそっくりかもしれないあなたは、いったい何者なの? 何が目的?」
『さっきも言ったけど、私とあなたは同じ人物よ。目的は……別に無いかな』
「嘘! あなたはアヤの事全部知っているようだけど、アヤはちっともあなたの事知らないの。それっておかしいと思わない?」
『……さあね? その辺については私もよく知らないの。元々この体はあなたが使っていたようだからね、私の存在自体が怪しいようなもの……なのかな? 多分』
全てを知っていそうな口ぶりで語っていたアヤノ。問いかければあやふやな答えばかりが返って来て。
本当は何もかも知っていてとぼけているのか、あるいは言葉通り嘘偽りなく知らないことは知らないのか。彩乃の苛立ちが積り始める。
「――わからない! 全く分からないわ! それに、この訳の分からない空間も……もしかして、これって夢、なの?」
『半分当たりで、半分不正解! とにかく、忠告はしたから』
腰の鞘に剣を収めると、くるりと回り背中を見せた。
『再び会うことが無い事を祈っているよ』
背中でそう言い残したアヤノは、この場から立ち去ろうとする。
「ちょ待って! まだ聞きたいことが――」
彩乃は跪き手を伸ばして消えてゆくアヤノを捕まえようとするが、霧のようのに拡散しその姿が消えていった。
「…………!」
残された彩乃の視界も、段々と暗くなっていって……
そして――
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
彩乃は目を覚ました。
赤い軽自動車の中、助手席に座っている。
あれからどのくらい眠っていたのだろうかと、彩乃は考えた。
未だ焦点の定まらない瞳で視線を移す。
隣の運転席では、海斗が何やらイライラしている様子で、ハンドルを人差し指でトントンとしながら前のめりになっていた。
前だけをぎらついた目で睨み、時折舌打ちもしている。
「…………カイ?」
そんな海斗に思わす声をかけてた彩乃。それに気付いた海斗は、
「――あ! ごめん、目覚ませちゃった?」
と、指で音を立てていた自分にハタと気づき、慌ててハンドルを握りなおした。
「ううん、……それより、どうしたの? カイらしくないんじゃない」
彩乃はあまりこういった海斗の姿を見たことが無かった。
再会してからは特に大人しい印象しかなく、昔と違い全く穏やかな性格になってしまったのかと思っていた。
海斗の小さかった頃は、お互い言い合ったり喧嘩をしたりと、彩乃の男勝りな性格に負けず劣らず張り合っていたものだ。
負けず嫌いだったのは、幼き日の海斗も一緒だと懐かしく思う彩乃。
「もっと早くアヤん家に着くはずだったんだけど、渋滞につかまっちゃって……早く帰んなきゃって、焦りもあったから……」
「あー、それで」と、海斗が苛立っていた理由が判明してちょっと納得。
「ごめん、起こすつもりは無かったんだけど……どう? 具合は? まだ良くない?」
「うん、おかげさまで、もう大丈夫かな……それよりカイ、アヤが寝ている時、何か変な事言ってなかったかな?」
つい先ほど見ていた夢。
今も脳裏にはっきりと焼き付いていて、彩乃はとても夢だったとは思えないでいる。それほどに鮮明だった。
だからだろう、変な事を口走っていなかったか、海斗に伺ってみる。
「いや、別に何も言ってなかったよ。うなされていた位かな?」
うなされていた程度ならと、彩乃はほっと胸を撫でおろした。
仮眠をとれたおかげなのか、あるいは夢の中の『アヤノ』が現れたせいなのか。いずれにしろ今の彩乃の体調は回復していて、とても気分が優れていた。だるかった体も、今はすっきりとしていた。
助手席の背もたれを起こすのと同時に「んしょっ!」と掛け声。上体を起こした彩乃はピースサインと笑顔を海斗に向けた。
「ほらこの通り、元のアヤちゃんに戻りましたっ」
ハンドルを握る海斗は横目でチラリ。
「なら、よかった」
元気を取り戻した彩乃を見て、ホッと一安心。海斗はスーっと肩の力が抜けていくのを感じていた。
「……なーんか、元気になったら、お腹空いてきちゃった」と彩乃はぼそり。
聞いていた海斗も、
「あー、そういえばそうだな、僕もお腹空いてきた」
フロントパネルの時計を見ると、時刻は十七時四十五分を刻んでいた。
もっと早く家に送り届けるつもりだったのに、思った以上に遅くなってしまった事に海斗は申し訳なく思っていた。
とにかく彩乃には、家に着いたらしっかりと疲れを取ってもらい、それから根性で論文に取り掛かればと願っていた。
しかし、そんな海斗の思いを、いとも簡単に打ち砕こうと彩乃は、
「ねえねえ、カイ。ここからカイのアパートって近いの?」
「ん! ああ……割と近くだけど」
「じゃあ、これからコンビニかどっかで夕食買って、カイのアパートへ行きましょ。ね、イイよねっ!」
半ば強引に海斗の同意を求めて来る彩乃。その圧は凄いとしか言いようがない。
運転中の海斗は抵抗することも出来ずに、黙って頷くしかなかった。
「やったー! うおー、男の一人住まいかぁー、萌えますねえ」
一人妙なテンションで盛り上がる彩乃を横目に、道中で眠っていた彼女を起こしてしまった事を、猛反省する海斗であった。
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