第32話 田中という男 4
今回の事件において僕が知りたいことは、ただ一つ……先輩がこれからどうするのか、ということだけだ。正直なことを話すと、僕は僕の大切な人たちが傷つかなければ、他のだれがどうなっても構わない。
たとえ、それが妹の友達の兄出会っても、唯一会話をしたことのあるクラスメイトでもだ。
彼らが命の危機にあろうが、誰かを僕の知らない人を傷つけようがどうでもいい。――そう思っていたのはほんの数日前までのことだ。
「だったら今回、山田を襲ったやつのことを教えてくれないか」
「残念だがそれは不明だ。1つわかっていることは、同じような被害にあった人物がいるということ……そして、その人物の居場所だ」
「僕が知りたいことのすべてを知っているんじゃなかったのか?」
「本当に君が知りたいことだったら知っているさ……」
僕が知りたいことは、僕にしか知り得ないことでしかない。つまるところ、この男から話を聞くまでもないということだ。
だからこそ、僕は今回の事件を早く解決するための情報がほしいが、どうやら僕は結論を急ぎすぎているらしい。
最初から理解していたが、山田を襲った相手がわかっているのなら、僕たちの出る幕はないだろう。もっとも、意味のないことをさせることが田中の目的というのなら話は別だが、その可能性はかなり低い。この事件には政府が関わっているからだ。
田中の独断で全てが決められているということはほぼないだろう。もちろん可能性が0というわけではないが、それでも、田中がそんな無駄なことをする人間には思えない。
「宮下さんは、昨晩家から出ていませんよね?」
「ああ、それは君も確認しただろう? 警察も彼女をマークしているから、彼女は昨晩ずっと家にいたと断定できる。彼女は山田と接触していない。そして、もう一人の被害者とも接触はなかった。だからこそ、私達にとっては大きな問題だ」
「つまり犯人はわからないと言うことですか……」
じゃあ結局のところ、ここを訪れた意味はなかったということになる。いや、一つだけ新しい情報もあったか。
「だったら、もう一人の被害者について教えてくれ」
「もとより、私の役目はそれを伝えるということだけだ……私が彼女に会いに言っても何も聞き出せないからね。持ちつ持たれつというやつだよ。私達に解決出来ない事件をFAに解決してもらう……私達がほしいのはその結果だけだからね」
田中が執拗に『私達』を名乗ることに違和感がある。『私』はもちろん田中をさすのだろうが、『達』とは誰をさすのか、それだけが気になってしょうがない。
だけど今はそんなことは重要ではない。余計なことに首を突っ込んで、余計な重荷を背負う必要はないということだ。僕もまるで普通の人間みたいなことを考えるようになったものだ。以前なら、こんな事件に首を突っ込むこと自体が重荷だったはずだ。
「そんなことはどうでもいい。僕は自分のために早く事件を解決したいだけだ……被害者はどこだ?」
僕の問いかけなど意にも介さず、田中は机の上の散らばった資料を片付けるなり、どっかりと椅子に座った。そしてそのまま、椅子につけられたキャスターで子供のようにコーヒーメーカーのもとへと移動する。
地面に散らばった資料なんてお構い無しで轢いていく。資料はくしゃくしゃになっているが、それも田中にとってはどうでもいいのだろう。
「まあとにかく、座りなよ。せっかく来たわけだ……あ、コーヒーはブラック? それともカフェラテ?」
「急いでる……」
「そっちのお嬢さんはそうでもないみたいだけど?」
田中の言葉に、僕は後ろを振り向いた。ふかふか……とまではいかないが、それなりに高そうなソファーに先輩はゆったりと腰をかけている。
「先輩……っ!」
思わず僕は声を荒げた。
別に怒るようなことでもない。普通に考えて、被害者のことがわかったからといって事件が解決するわけでもないし、彼が全て本当のことを話すとも限らない。ゆったりと考える時間だって必要だろう。
だけど、僕にはそこまで精神的な余裕があるわけでもないのが現状だ。
「落ち着いてください。先程私に言ったことを忘れたのですか? 彼の口車に乗って怒りのままに、被害者にあったところで状況がいい方向に進むとも思えません。私達がするべきことは、事件の早期解決ではなく、正しく解決することです。ただでさえ私達は素人なのですから、慌てたところでどうにもなりませんよ」
先輩の言うことは正しいのだろう。だけど、それでも腑に落ちない。だって早期解決は先輩が求めていたことのはずだからだ。先輩は絶対に誰も傷つけたくないと、そんなことを平然と言ってのける人物だ。
だからこそ、僕はそれ以上何もいうことが出来なかった。
先輩も先輩なりに我慢しているということだ。だったら僕が我慢できずにどうすると言うのだ。
「ブラック」
僕は勢いよくソファーに座り込んだ。
こういった苛立ちを感じているときこそ、ブラックコーヒーの苦さと芳醇な香りが気分を落ち着かせてくれる。
「私はカフェオレで……ミルクは多めで、砂糖は4つお願いします」
「わかったよ。それで、皐月くんはどうする?」
僕はコーヒーに砂糖なんて入れない。
「いらない」
「そうか……だったら、茶菓子でも出すとしよう」
そう言うと田中は椅子から立ち上がり、何やら机の下を漁り始める。
僕はというと、コーヒーメーカーから漂い始めたコーヒーの香りを堪能するとともに、先輩の方を見る。先輩は何やら考え事をしているようだ。本当は先輩と会話でもしようと思っていたが、彼女の至高な思考を邪魔するわけにもいかない。
仕方なく、僕は部屋の様子を観察することにした。
よくよく見渡すと、普通の家とはまるで違う造りになっていることに気がつく。例えば、エアコンは業務用だし、FAXもかなり事務的なものを使っている。極めつけは蛍光灯だ。まるで学校などで使うような棒状のものが4本並んでいた。――これじゃあ、本当に仕事場だ。
「あったあった」
どうやら、田中が茶菓子を見つけたようだ。何やら袋のようなものを抱えている。僕も先輩もそこまで食いしん坊ではない。あんなにいっぱいのお菓子を用意されても食べられないし、そこまでゆっくりしていくつもりもない。
だが用意されたものに全く手をつけないというのも失礼だ。本当はお菓子なんて食べたくないのだけれど、仕方なく食べた。
「さあどれでも好きな物を食べなさい」
僕は田中に促されるまま、袋の中身を確認する。
「おい……」
「遠慮せずに、どれでもいいから」
どれでもいいって言われても、どうみても種類は一つ。中はすべて麩菓子だ。いや、種類的にはなん種類もあるのだが、どれも麩菓子だ。
「――それで、被害者っていうのは誰なんだ?」
コーヒーをすすりながら、僕は依然あっけらかんとしている田中に尋ねる。
僕は何度も同じことを尋ねるのが少しだけ嫌いだ。だって、無駄だろう。だけど僕とは違う意見を持つものだっている。だからこそ、僕は自分の意見を押し付けることなんてしたくない。それこそ無駄だからな。
「そう慌てることはないよ。時間は無限ではないけど、長い。『時間を無駄にしちゃいけない』なんて、心に余裕のないやつが言うことだよ。心ここにあらずってやつだね」
「いいんだよ。僕は心の余裕がないやつで。心なんてどこにあろうがいいんだから」
「心の位置は確かに重要ではない。あるものは心臓に心があるなんて言うし、またあるものは脳に心があるなんて言う。だけどね、心がどこにあろうと、心の役割は忘れてはいけない。重要なのはそれだけなのだよ。心は体を置き去りにしてはいけないし、体は心をおざなりにしてはいけない」
僕に意見を押し付けるな。そりゃ誰にだって自分の考えを持ち合わせているに決まっているが、それを押し付ける奴が一番嫌いだ。
今まで、誰にも流されずに生きてきた。これからもそうするつもりだ。答えは自分で見つけるし、誰にも指図を受けるつもりはない。
「心をどうするかは僕が決める。被害者っていうのがどんな奴か早く教えろ」
「若者は大人の言うことを聞くものだよ」
田中は大きくため息を吐く。彼も譲るつもりなどないということだろう。
「意地悪はやめて下さい。もともと、私たちに説教をするつもりなんてないでしょ?」
突然の横槍に僕も、彼も声の方を見る。ようやく考えがまとまったのだろうか、先輩が田中の方を見て、まるで仲の良い親戚に向けるかのような屈託の笑顔だった。
「最初から気持ち悪かった。あなたが政府の計画通りにことを運びたいのだったら、私たちの邪魔をする必要ありませんからね」
「先輩、どういうことですか?」
確かに、先輩の言うことはもっともだが、ただ単に嫌がらせをしていたという事だってあり得る。彼だって人間なのだから、対象に嫌な感情をむき出しにするのは仕方のないことなのだから。
「つまり……いえ、口に出すのも野暮ですね。ともかくこれ以上、誠君が何かを言う必要がないということです」
そんなこと言われても、僕は察しがよくないからわからない。先輩は何が言いたいんだろう。
「それって――」
僕の口から、言葉が出るのを田中が手で制止した。
「本当にいいコンビだ。普通の人間と、聡い人間。そこに大きな違いなどないけど、観点は全く異なる。複数の観点を持つ者は絶対に存在しないが、ここまでまるで正反対の人間同士がコンビを組むことはないとは言い切れないからね。だけど時に、それは不幸を招くということも知って置いた方がいい」
話しについていけず、置いてけぼり気味な僕をさらに置き去りにする二人に、僕はどう対応するべきか全くわからない。ただ一つだけ、たった一つだけ理解できること言えば、相反する田中と先輩の意見はまるで別のところから見ると、同じだということだ。2人とも何かに気を使って話している。お互いをということではない、お互いの守るべきものを傷つけないように行動しているということだ。――それが誰か、もしくは何かまではわからない。つまるところ、僕が少しの事柄から、いくつもの事実を嗅ぎ分けられる天才ではないというわけだ。
だから、そんな僕を置き去りに話しは進む。
「私は不幸になりなれていますし、誠君を守って戦うことぐらい簡単なことです。ですので、あなたが気に病むようなことは何もありません……」
先輩の言葉に、田中は大きくため息をついた。まるで、先輩を馬鹿にしたかのように大きなため息だ。
もちろん、僕が田中の心の内を知ることは出来ないのだから、本当に馬鹿にしているのかということはわかりようもない。彼の嘘すら見破れない僕には明らかに力不足な領分だろう。だからこそ、田中が口にする言葉が耳に入った時は僕の妄想が現実になることを実感できた。
「君は勘違いしているが、私は何も思わないよ。君たちがどうなろうともね……今までもこれからも、それだけが私の取り柄だからね。だけどそれとは別に、君たちが彼女に……殺人事件の容疑者に会いに行くとしても、悲観はまるでしていないよ。君たちなら何事も起こさず答えを見つけられるだろうからね」
そういうと田中は、先ほどとは打って変わり、僕たちに依頼したあの時とも違う、さながら仕事の話をする大人のように真剣な態度で僕たちに、第2の被害者について話し始めた。
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