第41話:真っ赤な涙
悪魔が翼を広げるように、黒のロングコートが風になびいていた。そこから伸びたしなやかな脚も、ストッキングとブーツで黒に統一され、闇と同化したみたいだ。銀色の髪を押さえながら、ミヤコさんはもう一度笑った。瞳は鋭さを残しながらもどこか穏やかで、見惚れてしまいそうだ。
僕は一歩後退し、ナイフから離れる。
「お、お前は……」
まるで本物の悪魔に遭遇したような、驚愕に満ちた声だ。目を見開き、さっきまでとは別の理由で手を震わせていた。
「……どうして、こんなところにいるんですか。何でパジャマじゃないんですか」
「簡単なことだ。勉学に対して真摯な君が、教材を学校に置きっぱなしにするとは思えないからね。それ以前に、出張が終わってからの君はどうも様子がおかしかった。今回の事件に原因があるとすれば、想像に難くない」
それに、とミヤコさんはコートの内ポケットからイヤホンを取り出し、僕の胸元を指差した。
制服の上着の胸ポケットを押さえると、違和感があった。中に指を突っ込むと、薄い板のようなものが入っている。取り出してみると、赤いランプが明滅するカード状の機械だった。たぶん、盗聴器だ。思わず苦笑いをしてしまった。
「波戸武西、だったか? 君の言いたいことは正しく伝わったよ。ご苦労だったな」
「……なに?」
「私を、君と同じ目に遭わせるつもりだったのだろう? ネタばらしをしてしまったら興ざめなのは、読書も現実も同じだ。だからもういいと言っている。さっさとどこかへ消えろ」
「お前は……どこまで人を……」
落ち着きかけていた波戸さんの感情が、一気に再沸騰する。僕と相対した時とは違い、表情を隠すことなく憤怒する。
「情操教育なんてくだらない目的のためにっ! お前は南を殺した! 俺は、俺はお前を許さないっ。南を、南を返せ!」
「君は馬鹿か? 死んだ人間が生き返るわけがないだろう」
一笑に付して、取り合う様子はない。波戸さんに語りかけるミヤコさんは、まるで小さな子どもを相手にするかのような口調だった。
「……だから、だから俺は、人を殺してきたんだ。そして最後にこの少年を殺すつもりだった。お前がこれまでしてきた罪の重さを認識させるために……」
「ますます馬鹿げているな。自分がやられて嫌な気持ちになることを他人にしてはいけないと、幼稚園で先生に教えてもらわなかったのか? もはや子ども以下だ」
今度こそ本当におかしいというように、くすくすと笑みをこぼす。
波戸さんが悔しさに瞳を潤わせ、千切れんばかりに唇を噛みしめる。
「ミヤコさん、もうやめてください!」
「なんだ、安室くん。この男に同情でもしているのか」
「そういうことじゃありません。ただ、僕らに波戸さんを責める資格なんてない」
「資格などいるものか。ただの常識の問題だ。大の大人がこれでは、この国の未来が心配だな。成人相手の教育プログラムの、全面的な見直しを国に進言してみるか」
このヒトには波戸さんなどはじめから眼中にない。わざわざここへ来たのだって、波戸さんを捕まえるためとかじゃなく、きっとただの好奇心だ。
「お前はあっ!」
波戸さんが僕の背後にまわり、腕で首を絞めつける。首の後ろ、ナイフの当たった部分がちりっと熱い。
「この少年を……お前の目の前で殺せば……少しは……!」
違う。波戸さんにもう僕は人として映っていない。いかにミヤコさんを困らせるかに目的が移っていた。波戸さん自身も、どうすればこの感情から解放されるのかわからなくなっている。
憎い。
許せない。
ふざけるな。
どうしてなんだ。
どうしたらいいんだ。
波戸さんの声が、聞こえてくる。
感情の渦に飲み込まれ、自我を奪われている。
「やめておけ。安室くんを殺したところで何一つ変わりはしない」
「波戸さん、その通りです。ミヤコさんは僕のことなんてどうでもいいんです。これ以上罪を重ねないでください」
「そういう話ではない、安室くん」
ミヤコさんが足を踏み出す。波戸さんはじりじりと後ずさりをするが、間隔が少しずつ狭まっていく。やがて防護柵に背中からぶつかり、これ以上引き下がれなくなる。
「来るな!」
腕の力が強くなる。同時に、押し当てられたナイフが食い込んでいく感触があった。
しかしミヤコさんはスピードを緩めずに接近し、とうとう手の届く距離になる。
「『人は幸せになるために生きている』。先ほど君はそう言ったな。ならば問おう。今の君は幸せなのか?」
「……お前のせいで、俺は、俺は……」
「いつまでも過去に囚われ、私や妹に責任を押しつけてはいないか? 君の人生は君のためにある。波戸南は、君の幸不幸には直接関係はないのだよ。君が幸せになりたければ、君自身が変わるしかない。安室くんを殺すことが、君にとっての幸せなのか?」
「屁理屈を言うな……。いくら言い逃れをしようとしても……」
顔をずい、と寄せる。まるで自分の首を差し出すように。
「私は人を殺めることに罪の意識も、迷いも感じない。だが君はどうだ。そんなにやせ細って、精神をすり減らしてまで人を殺す必要があるのか?」
「やめろ……」
「妹の死が君の不幸だと言うのなら、君の罪は、君の両親にとってさらなる不幸をもたらすというわけだ」
「やめろ……やめろ……」
ミヤコさんが、僕の首に絡まった腕をとる。そのまま、握られたナイフの先端を自分の喉に当てた。ミヤコさんの白い首筋に、赤い点が浮かぶ。
「もし君が本当に幸せになりたいのなら、直接の原因を取り除くしかない。私を殺せば、君は幸せに近づけるかもしれないよ」
「やめてくれ!」
腕を引っ込めて、波戸さんが脇に逃げる。ミヤコさんから距離をとり、直視を避けるようにうつむいた。
「もう……やめてくれ……」
許してくれ。
必死に制御していた罪悪感が噴出し、波戸さんの全身を支配していた。
許してくれ。許してくれ。
波戸さんは、ミヤコさんへの復讐のために、僕や、他の六人を襲った。幸せを奪った。
許してくれ。許してくれ。許してくれ。
もし人の生きる目的が幸せになることなら、波戸さんの前にはこれからどれほどの壁が立ちはだかるのだろう。想像するだけで、めまいが起きそうになる。
「君を糾弾することに資格は要らないが、もし私に持っていない資格があるのだとすれば、君を逮捕することだ。現時点で連続殺人の証拠はないからな。かといって通報するつもりもない。今後の身の振りは、君の好きに決めればいい」
ミヤコさんがコートを翻す。もう波戸さんへの関心は失ってしまったらしい。
「安室くん、帰るぞ。いつまでもここにいては風邪を引いてしまうからな」
このまま波戸さんを一人で置いていけない。けど、僕も波戸さんを通報する気にはなれなかった。
肩を震わせる波戸さんを、じっと見つめることしかできない自分が悔しかった。
どれほど辛い気持ちを抱えているか、わかっているはずなのに。
何もできない。手を差し伸べることすらも。
波戸さんはやがて顔を上げ、遠ざかるミヤコさんを一瞥した。再び視線を落とし、持っていたナイフに向ける。
「巻き込んでしまって、悪かったな」
「……っ!」
駄目だ、と言う前に、波戸さんは自らの喉元へナイフを突き立てた。
最後まで波戸さんは泣くことはなかった。
その代わり、最後の最後に真っ赤な涙を流したのだった。
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