第40話:さようなら、ミヤコさん

 喜びを殺し、哀しみを殺し、情愛を殺し、怒りを殺し、快楽を殺し、憎しみを殺し。


 心を殺す。


 僕は、波戸さんに殺されるためにここへ来た。


 波戸さんが尻ポケットに手を伸ばす。取り出したのはタバコでもライターでもなく、木製の柄だった。指先で中身を出し、ぱちんと音を立てる。折り畳みナイフだ。


「よろしければ、自分でここから飛び降りますが」

「いや、それでは事故死として片づけられてしまうかもしれない。陸地で血を流していれば、誰が見ても殺人だとわかるだろう」

「確かに」


 海に飛び込んでしまっては、最悪死体が発見されない可能性がある。それでは互いにとって無駄死にでしかない。


「これで少しでもあの女に、俺の、俺たちの痛みが伝わればいい」


 ゆっくりと波戸さんが近づいてくる。


 僕は口を開きかけて、やっぱり言うのをやめた。


 これまでの行為はまったくの無駄だったんですよ、と。


 きっと波戸さんは、僕をミヤコさんの相棒か何かと勘違いしている。


 でも実際は違う。


 僕はただのアルバイトで、使い走りで、使い捨てだ。


 僕の前にだって、スタジオミヤコで働いていた人はいたはずだ。彼らも僕と同じように心を奪われたのかもしれないし、別の何かを「人質」に取られていたのかもしれない。


 しかし彼らは一様に、ミヤコさんの前から消えていった。


 自ら去っていったのか、「陰謀」によって消されたのか。どちらともありえるし、どちらでもないのかもしれない。




 ただ一つ言えることがある。ミヤコさんは、これまでずっと一人だった。




 僕がいて、編集さんがいる。今は一緒でも、やがて僕らはいなくなる。見送るのは

いつだってミヤコさんだ。


 それがわかっているからこそ、ミヤコさんは揺るがない。人が死のうが、怒りをぶつけられようが、悲しみを訴えられようが、はじめから一人なのだから、他人に心を動かされたりしない。


 波戸さんのもとへ歩み寄る。踏みしめた砂利の音が、波に打ち消される。風が強い。体が揺らぎそうになる。それでも、すぐ目の前にある未来に向かって進むのを止めない。


 人に平等に与えられる、死という運命に向かって。


 波戸さんとの距離がゼロになる。両耳の耳たぶにはピアスのような黒子があった。まるで死神と契約した証のようだ。だらんと下ろしていた手に握っているナイフを、僕の首元に押し当てる。


 僕は震えていた。これからやってくる痛みは、体が生存に耐えられないほどのものなのだろう。いくら覚悟があったって、恐怖には打ち勝てない。


 波戸さんの呼吸は乱れていた。ナイフは首から離れては付き、離れては付きを繰り返している。やがて、ぐっ、と強く刃先が肉に食い込んだが、弾かれるようにまた元の位置に戻ってしまった。


「……君は、怖くないのか」

「怖いですよ。とても怖いです」


 死ぬ前にこの気持ちを取り戻せてよかった。波戸さんに殺された人たちの、スタジオミヤコに苦しめられた人たちの無念が、今ならしっかりとわかる。


 殺されることが今までの報いだとは思わないけれど、正義が悪を倒すように、罪を裁けるのは罰しかない。


 僕は瞳を閉じた。感覚が鋭敏になる。波戸さんの手の温もりと、首筋に当たるナイフの冷たさが伝わってくる。


 今度はさっきよりも力が強い。迷いを振り切って、僕の体へと浸食していく。


 息を止め、心の中でつぶやいた。




 さようなら、ミヤコさん。




「ずいぶんと色気のない逢引だな」




 芯のある、凛とした声。


 目を開く。


 波戸さんは首をちぎれんばかりによじり、後ろを振り返っていた。


 その視線の先にいたのは、一人の女性だ。


 スタジオミヤコの局長であり、僕の上司。


「仕事帰りに寄り道かい? 安室くん」


 ミヤコさんが、不敵な笑みを浮かべて立っていた。

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