第16話:アリス

「ん……」


 かすかに声を漏らし、少女がゆっくりと目を開ける。編集さんとミヤコさんは、隣の部屋からマジックミラー越しに様子を眺めているはずだ。


 状況を瞬時に理解したのだろう。少女の瞳の色が一瞬で恐怖に染まる。


 ピエロのマスクをかぶった僕は、右手をゆっくりと振り上げる。



 渇いた音が一発、響いた。



 少女の頬が赤く染まっている。台本通りとはいえ、鏡の向こうで編集さんは血の涙を流しているに違いない。


「我々は君を誘拐した。言うことに従えば命は保証する。ただし、逃げ出そうとしたり逆らったりしたら、指を一本ずつ落としていくぞ」


 もう片方の手で持っていたダガーナイフを、少女の目線の位置でちらつかせる。


「……名前は」

「……」


「名前は!」


 刃を頬に押し当て、語気を強める。


「……ありす」


 少女は声を震わせながら、たどたどしく名乗った。


藤城ふじき、ありす、です」


 表記を訊きだしてからしゃがみこむ。マスク越しに、おでこをくっつけた。


「ありすちゃん。良い名前だね。かわいいね、食べちゃいたいね」


 このセリフは、編集さんの意向である。決して僕の個人的な意見ではない。


 優しく頭を撫でてやる。ナイフをちらつかせたまま。


「状況は、わかるかな?」


「これは、誘拐、でしょうか」


「正解だよ。ありすちゃんは我々にさらわれてしまったんだ。かわいそうに。でも大丈夫。これから君の正面に置いてあるビデオでご両親に映像を送ってあげるからね。お金さえ払ってくれれば、ちゃんとお家に帰してあげる」


 正面に鎮座している三脚付きのビデオカメラを指す。既に撮影は始まっている。藤城ありすは少しだけ頭を持ち上げてビデオカメラを確認し、視線を僕の方へ戻す。もっと取り乱すと思っていたが、意外とこの状況に順応している。いや、小学生なりに身を守ろうと、必死に食らいついているのだろう。


「でも、たぶん、藤城家に大金なんか、ありません」

「だったら、ありすちゃんに体で払ってもらうしかないよね」


 台本通り、娼婦を選別するような、ねっとりとした視線で藤城ありすをなめ回す。それが女として売り飛ばすのか、臓器を抜き取るという意味なのかはわからないが、嘘偽りではないという真剣みを伝えなければならない。


「大丈夫。きっとご両親は意地でもお金をかき集めてくれるよ。親子関係っていうのは、何よりも固い絆なんだから。そうだよね?」


 最後の一言は、きっと両親に向けたメッセージだ。僕はビデオカメラに歩み寄った。


「五千万。三日後までに用意しておいてね。警察には言うな、と脅したところでどうせ通報するよね。いいよ。むしろこの映像をマスコミにでも流したらいいんじゃないかな。義援金が集まるかもしれないし。ありすちゃんはこの通り元気だけれど、お金をくれなかったら四肢を切断して、五臓六腑を抜き取って、一個ずつ自宅に送ってあげるよ。着払いで。とにかく余計なことはせず、大人しく待っていてね」


 また連絡するね、と言葉を残して、ビデオカメラの電源を切った。


 一度隣の部屋に戻り、水と菓子パンの入ったビニール袋を持ってまた入室する。


 僕の役割は藤城ありすの監視だ。食事の管理、トイレの同行。スタジオミヤコにこれから毎日寝泊まりをして、身の回りのお世話をする。両親には業務が終わらないのでアルバイト先に泊まると伝えてある。


 母親は僕が外泊することにむしろ安心しているようでもあった。まさか息子が誘拐事件に加担しているとは夢にも思うまい。


 ミヤコさんは子どもが苦手だし、編集さんは「ずっと一緒にいると食べちゃいそう」という理由で、僕にお鉢が回ってきたのだ。


 僕は椅子の前にビニール袋を置き、続けて手錠の鍵を外した。藤城ありすはじっと黙って見つめている。


 ポケットに手錠をしまうと、か細い声が聞こえた。


「……ありがとうございます」


 僕の目を見て、藤城ありすは感謝を述べた。


 礼を言われる筋合いはない。むしろ百パーセントこっちの事情で勝手に巻き込んでいるだけだ。さらに言えば、お金に困っているわけでもない。ただ世間を騒がせるためだけに、一人の少女の人生を台無しにしようとしている。


「僕は隣の部屋にいるから、何か用があったら言ってくれ。テレビとかインターネットは無理だけど、暇だったら適当に本とか持ってくるから」

「……いえ、お気遣い、感謝します」


 編集さんはアトランダムにさらってきたようなことを言っていたが、もしかすると地元の名家の娘さんなんじゃないだろうか。普段から言葉遣いに気をつけていなければ、大人相手(僕は高校生だが)にここまで丁寧な物腰で対話などできない。ビンタを食らった時こそ動揺していたが、今ではすっかり落ち着きを取り戻しているようだった。


「あ、あの」

「ん?」


 腰を落とし、目線の位置を合わせる。


「わたしは、死んでも、別に、いいです。親を困らせたくないんです」


 瞳にもう怯えはない。現状を受け入れて、自分がもっとも他者に迷惑をかけない方法を考えている。このままここで命を落とすことが、もっとも適切なのだと。


 だいぶ昔にさとり世代、なんて言葉があったが、今は菩薩世代とかに呼び方が変わっているのではないだろうか。


「そんなこと言っちゃ、駄目だよ」


 たしなめるのと同時に深入りは禁物だと言い聞かせて、防音室を出る。


 マジックミラーの前に立っていた編集さんと目が合った。



「ありすちゃんと、なに仲良しになってるのさ……!」



 編集さんは両目から血の涙を流していた。

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