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「歩美ったら宿題もしないで携帯ばっかりいじってるのよ。宿題、宿題って私がうるさく言ったら部屋にこもっちゃって」

 耳に当てた携帯端末から妻の声が響いている。岸元はタバコに火を付ける。

 場所は千歳駅前の小さな中華料理屋。平日の午後8時半前。客は少なかった。餃子と回鍋肉を肴に、生ビールを飲んでいた。岸元は「ああ」とか「うん」と返事するだけで、ほとんど妻が喋っている。結婚して15年経っているが、夫婦の会話はいつもこんな感じだった。

「それじゃあ、お土産買って帰るから」

 電話を切る。店の奥が騒がしい。テーブル席にいる老人連中がビールを片手に何かを言い合っていた。重い息を吐き出す。半時間前、岸元は駅の公衆電話から銘苅に報告した。その際に銘苅から聞かされた話では、防衛書記官が明日に三雲に対する処分を決定すると言い出していた。銘苅はどうにか市谷を抑え続けていたが、それも限界だという。

 岸元はタバコを灰皿に押し潰した。三雲の無実を裏付けるには、事故当夜に現場空域を飛行していた2機目の敵味方識別不明機アンノウンの存在を立証しなければならない。それには、オホーツク海に墜落した篠崎のF-15が必要になる。篠崎機に搭載したレーダーのスレッドを解析すれば、アンノウンのレーダーが発した脅威信号が採れるはずだが、回収作業は遅々として進んでいない。

《いよいよ、どうにもならんかもな・・・》

 岸元は立ち上がった。カウンターの中に立つ店主に声をかける。

「おあいそ」

 レジで会計した後、中華料理屋を出る。次の河岸も初めての店だったが、すでに場所は調べていた。歩いて3分もかからない場所に建つ飲食店ビルに入る。エレベーターで5階に上がる。両側にスナックが並んだ廊下を突き当たりまで歩いた。黒地の行灯を見る。一風変わった書体で《絵麻》と切り抜かれていた。文字は淡いピンク色に光っている。

「どうするかな」

 ぼんやり突っ立っている内にドアが開いた。中年の女性が顔をのぞかせる。

「あら」

 岸元はぎこちない笑みを浮かべた。

「もう終わりですか」

「いいえ。どうぞ」

 スナックのママらしい女性は明るい笑顔でドアを大きく開けた。岸元は店に入る。8人も座れば一杯になるカウンターと奥に狭いボックス席があるだけの小さな店だった。客はカウンターに3人。ボックス席にもいる。岸元が空いているストールに腰を下ろすと、カウンターからママが聞いてくる。

「何がいいかしら?」

「そうだなあ・・・この店は千歳基地の隊員が常連だとか」

「そうね」

「なら、篠崎真・一尉がよく飲んでいたものを」

「じゃあ、これね」

 ママはカウンターの背後にある棚からボトルを取り、岸元の前に置いた。ラベルの右端に傲然と顔を上げ、二本脚で立つ赤茶けた鳥が描かれている。ワイルドターキー。

「《シン》さんはいつもロックで」

 角氷が山盛りになったアイスペールとロックグラスも置いた。

「すみませんね。今はちょっと忙しいから、勝手にやっててくださる?」

 岸元はグラスに氷を入れ、バーボンをたっぷりと注いだ。ひと口すする。喉に焼けるような熱を感じる。身体が揺れている。酔ったのか。たった1杯飲んだだけなのに。同じ洋酒を嗜んでいた男が岸元の同期にいた。

 登坂士郎。中年の男がカラオケで歌っている。普段はすましている登坂も酒が入れば、カラオケで持ち前の渋い声でバラードを歌った。戦術偵察機のRF-4Eは武装を一切搭載していない。それでも登坂は常に自分自身が戦闘機パイロットであることを忘れていなかった。どんな敵でも七面鳥撃ちターキーシュートに追い込む。ワイルドターキーは戦闘機パイロットの証明として飲んでいた。

 過去の感傷に浸っている暇はないはずだった。それでも今はその時間が欲しい。明日には前途有望な戦闘機パイロットが1人、無実の罪で処分が下されてしまう。そもそも市谷が調査に乗り出す発端となったのは、千歳基地かその周辺にいると思われる自衛隊関係者のタレ込みと考えられる。三雲を陥れる噂を流した人物は誰か。噂を流した動機は何か。市谷がその噂を真面目に受け取った理由は何か。

 沈殿するような思考が不意に断ち切られる。カウンターからママが声をかけてくる。

「お客さんも戦闘機に乗ってるの?」

「以前はね。今は管理職だから・・・もう乗ることもない」

 ママはタバコに火を付ける。

「管理職ってことは、《シン》さんたちの上司?それにしちゃみかけない顔ね」

 岸元は苦笑を浮かべる。

「普段は三沢基地にいるからね」

「ああ、それでね」

 岸元は店内を見渡した。ボックス席にいた団体客はいなくなっていた。カウンターも2人しか客は残っていない。

「そう言えば、茉優さんは今日お休みですか?」

「あの子、急に連絡つかなくなっちゃったのよ。まあ今の若い子らしいというか」

「いつからですか?」

「ほら《シン》さんの戦闘機が海に落ちたってニュースが出たでしょ。その日からね」

 その話が本当なら、姿が見えなくなってからすでに五日が経過している。

「心配でしょう」

「そうねえ。あの子は姪っ子なんだけど・・・こんな商売だから、ふいって居なくなっちゃうなんて日常茶飯事だしね」

「警察には届けたんですか」

 ママはうなづいた。

「一応ね。まだ見つからないみたいけど」

「誰かと付き合ってたとかはどうです?それこそ篠崎・一尉とか」

「言われてみれば、2人は付き合ってる感じはあったかも。でも、あの子は安土さんとも良い関係だったようだし」

「安土さん、と言うのは?」

「千歳基地の整備の人よ。《ミッツ》・・・三雲さんとよく組んでたみたいだけど」

「茉優さんは二股をかけてたとか」

「どうかしらねえ。篠崎さんと安土さんが喧嘩したとかは聞かないしねえ」

 岸元は脳裏にある事実を思い出した。安土は三雲機から赤外線追尾式ミサイルが発射できない不具合を把握しておきながら、その点を整備記録に遺さなかった。岸元が安土を問い質そうとしたが、整備小隊には身内に不幸があったとだけ伝えて不在だった。その日も篠崎機がオホーツク海に墜落した翌日だった。

 今日までに基地に戻ってきているのだろうか。

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