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「話を変えようか」岸元は言った。「さっきの訓練と近い時期、貴官は篠崎・一尉とホット・スクランブルに上がったことがあったかと思うが間違いないかね?」

 犬飼はうなづいた。

「三雲・二尉はその頃から、篠崎・一尉の様子が少しおかしかったと話してる。その日に何かあったか教えてくれるか?」

「あの日はロシア空軍機が領空侵犯しそうになったので、スクランブルになったと思いますが・・・」

「何も事件や事故が起こらなかったということか?」

「そう言われてみると、ヒヤッとした瞬間はたしかにありました。《シン》さんは基地に帰った後も少しピリついてましたね」

「篠崎・一尉はその理由を話したのかい?」

 犬飼はうなづいた。

「『一歩間違えば戦争になってた』と言ってました」

「それはおだやかじゃないな」

 いやな雲だ。篠崎はほぼ正面、西の空を睨んで思った。

 機体が降下するに従って雲量が増える。高度1万フィート以下は雲の塊がいくつも連なっている。西に行くに従って雲は高さを増しており、ちょうどアンノウンがいそうな辺りにそそり立っていた。

 高度1万フィートまで降下したトロイ編隊フライト―篠崎機と犬飼機は東西に広がってレーストラックを描くように飛行を続けていた。半周の差を付けてちょうど互いの後方をレーダーで探索するようにしている。すでに2週していたが、アンノウンの機影は捕まっていない。レーダーはどちらも捜索モードに設定してある。

 F-15は短射程の赤外線追尾式ミサイルAAM-5を5発、20ミリ機関砲に500発の実弾を搭載している。今のところ主兵装マスターアームスイッチはオフ。レーダー警戒装置は何の反応もしていなかった。敵が中射程ミサイルを撃つためにロックオンしてくれば警報が鳴る。

 編隊僚機ウィングマンを駆る犬飼が無線で呟いた。

《また引き返したんですかね》

 ロシア空軍機と思われるアンノウンは奥尻島レーダーサイトに捕捉されてから、スクランブル・ラインへの接近と離脱を繰り返している。最初に上がった5分待機組の2機はそろそろ千歳基地に到着し、再給油リフューエルを行っている頃だろう。2番手で上がった30分待機組も滑走路への最終進入アプローチに入っているかもしれない。

 レーダーサイトの防空指揮所(DC)が沈黙を続けているのはレーダーがアンノウンを失探ロストしたまま、まだ見つけていないからだ。引き返すなら高度を上げるはず。1万フィート以下を保っているなら近辺に潜んでいる可能は高い。

 トロイ編隊フライトは奥尻島の北西を飛んでいた。篠崎は左に眼を向ける。雲の切れ目からほんの一瞬、かすかに緑を散らした奥尻島が遠くに見える。今度は燃料計を一瞥する。1万ポンドをわずかに切った辺りで指針が震えていた。

 篠崎は編隊内交信チャンネルツーにセットしてある無線機のスイッチを入れる。

「《ドッグ》、こちら《シン》」

2番機ツー

「こっちは雲の下まで降りる。お前はそのまま1万で警戒しとけ」

了解ラジャー

 篠崎は操縦桿を前に倒す。F-15が降下を始める。あっという間に雲量が増える。低空に層状の雲が広がっている。厚い雲の間に抜けた時、篠崎はアンノウンを視認した。

 ふいに灰色の空間に弧を描く白い傷跡が現れる。右から左に伸びていく。戦闘機が機動した時に翼端から曳く水蒸気の帯ペーパートレイルに間違いない。しかも二筋。そろって僚機に向かっている。《ドッグ》がまだ気づいていない。敵はレーダーを使わずに雲間から《ドッグ》を視認したようだ。

 篠崎が間髪を入れずにF-15を右に横転させる。同時にスロットルレバーを前に押し出した。アフターバーナーを点火。F-15が蹴飛ばされたように加速する。無線機のスイッチを押し込んだ。

「《ドッグ》、左に急旋回しろブレイク・レフト視認タリホー敵機2機ツーボギー四時の方向を警戒しろチェック・フォー・オフロック

了解ラジャー

 今や灰色の空間に2つの黒点が見えていた。まだはっきりと形が見えるほどではない。距離は7か8マイルか。篠崎は酸素マスクの内側で呟いた。

「捕まえたぞ」

 レーダーが敵を捕捉する。同時にヘッド・アップ・ディスプレイに捕捉した敵の位置を示すコンテナが2つ現れる。それぞれの高度、彼我の距離、接近速度が瞬時に表示される。読み取っている暇は無かった。空中に白い弧がひと筋現れる。今度は左から右上。篠崎機に向かって伸びてきた。直後、レーダー警戒装置にポッと赤い点が表示される。耳障りな警報がイヤレシーバーに溢れ出す。

《シン、右に急旋回ブレイク・ライト。敵にロックされます》

 犬飼は悲鳴を上げる。

「分かってる」

 篠崎は怒鳴り返した。スロットルレバーから左手を離し、計器盤の中央にある主兵装スイッチに伸ばしてオンに設定する。すぐにスロットルレバーに左手を戻し、今度は兵装セレクタースイッチを親指で探る。

 急速に接近してくるアンノウンの姿がはっきりと見えた。平べったい機体。大きな主翼を広げ、2枚の垂直尾翼が見える。

 Su-27。

 主翼下に吊り下げされた空対空ミサイルの形まで見えた。すれ違いざまに撃ち込んでくるつもりか。だが、彼我の距離はせいぜい数マイルでしかない。短射程ミサイルを照準するための最短距離もあっという間に割り込んでいた。

 篠崎は兵装セレクタースイッチを機関砲ガンに入れた。

《今日がその日になるのか》

 犬飼は口を開いた。

「結局、《シン》さんは撃ちませんでした」

 岸元はうなづいた。

「撃っていれば、歴史が変わってる」

 全て初めて聞く話だが、岸元は意外だと思わなかった。対領空侵犯措置行動中にどのような事件があろうと口外できないが、ロシア機や中国機と絡むことはよくある話で噂になることもほとんど無い。もし篠崎がロシア機に向かって実弾を発射していれば、たとえ威嚇射撃だったとしても政府として発表せざるを得なくなる。

「ロシア空軍機は篠崎・一尉とすれ違った後、どうしたのかね?」

「《シン》さんの後ろを取らないで、高度を上げて編隊僚機ウィングマンと合流したそうです。そういえば・・・」

「何かあったのか?」

「《シン》さんはすれ違いざまに《フランカー》を視認したそうです。敵機の左翼に赤い線のストライプが入ってたようなことを言ってましたね」

 岸元は思わず言葉を失った。犬飼の証言にショックを受けたのである。

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