短怪異譚

奥田吹雪

第1話 スイカ


これはただ、とある人物に実際に起きたことを書き残しただけの小説である。


この人物を仮にYとしておく。


Yは恐ろしいものから隠れていた。

その恐ろしいものをYはよく知っていた。


Yは『それ』を物陰から窺っていた。

Yが窺っている『それ』は


「おーい、おーい」


とYを呼ばわっている。


喜色に溢れた声音だった。


嬉し、そうなのだ。……何故か。

そんな筈はないことをYはよく知っていた。

『それ』が自分を呼んだ場合、嬉しい、訳がない。


遠くに在る筈なのに、何故かYには『それ』の表情まで読み取ることができた。

『それ』は、生前のように、

好々爺然とした顔で笑っている。

顔は笑っている。

しかし目の奥は凍えている。

それが何故なのか、Yにはよく分かっていた。

Yはその老爺をよく知っていたからだ。


老爺はYの義理の父だった。


Yの義父は、子供の頃に自身の父親を亡くしているという。

高校を卒業するとすぐに建設会社の作業員として働き、弟妹を大学までやった。

その傍らで先祖代々受け継いでいる畑を耕して生きた。


長年苛酷な労働を強いてきたせいか、晩年Yの義父は足が利かなくなっていた。

Yは已む無く彼を引き取った。


しかしYは必ずしも彼を嫌ってはいなかった。朴訥で我慢強い彼を尊敬してさえいた。

では、何故……


Yは妻を愛していたからだ。

子供も持たないYは、常に優しい妻を一人占めしていた。

Yにはそれが幸福だった。


なのに彼が来てからは変わった。


妻はYに注いでいた手間や愛情の内の何割かを彼に注ぐようになった。

Yが呼べばいつも来てくれた妻は、『今手が離せないの。少し待って』と言うようになった。


Yはそれが気に入らなかった。


今しも布団に横たわる彼は、酷く痩せている。Yが彼に……


そう


妻は泣き出しそうな表情でいつも『あんたは爺さんなんだから、こんな脂っこいもの食べれないだろ』とか『あんたはもう死ぬのを待つだけの体なんだ。飯なんて半分でいい』とか、そんな風に言うYを見ていた。


妻はYを止められない。それをYはよく知っていた。


止めれば、或いはYが不在の隙に彼に食事を与えたりすれば、Yが彼を


彼を撲ると……分かっていたからだ。


今しも布団に横たわる彼は死んでいる。


死んで初めて、Yは彼に憐れみを感じた。

愛する妻を、Yに呉れた彼にYは……


漸く、憐れみを感じた。


その時だった。


絶やすことのない灯りを共に守っていた筈の妻が居なくなっていた。


玄関のチャイムがけたたましく鳴っている。


「なんだ……、……どこへ?」


Yは妻の姿を捜した。


チャイムは絶えず鳴り続けている。


厭な予感がした。


Yはふらふらと玄関に向かった。


玄関を開けると、そこにYの義父が立っていた。


義父は元気な頃、Y夫婦によくそうしてくれたように、手に袋を提げてきていた。

その袋の中には『よく出来た西瓜』とか『今年初めての茄子』とかが入っている……あの形は西瓜だろうな……

Yは朦朧としながら考える……


彼はいつものようにそれを掲げ、Yに中を覗かせてくれた。


……妻の切り取られた頭が入っていた。


Yは家の中に取って返した。


逃げたのだ。


義父は無言で追ってくる。


かさかさとやけにリアルな、ビニール袋の


あ、あ、というような声を漏らしながらYは冷蔵庫の後ろに隠れた。

数瞬遅れて厨に入ってきた彼は、Yを探すように見回して、にこり、と嗤った。


Yはガタガタと震えた。


彼は、「おーい、おーい、」とYを呼んでいる。

それだけだ。

怒りの言葉も恨みの言葉もない。

Yを矢鱈に恐ろしがらせるような仕草もしない。


只、怒りを行動でのみ示す様はまさに、義父だった。

朴訥で口下手で、我慢強い……


かさかさとやけにリアルな、ビニール袋の


恐ろしいものがゆっくりと冷蔵庫に近付いてくる。


かさかさと音が











次にYが目覚めた時、妻は眠っていた。

ああ、無事だったんだな、とYは酷く安堵した。

妻はゆっくりと目を開けて、ゆっくりとYを見た。

そして、あの泣き出しそうな表情で


「……赦してください、おとうさん。」


と呟いた。

Yは義父が妻に向かって差し出している(のであろう)ビニール袋の中からそれを聞いていた。


「……それでも彼が、わたしの夫なんです。ほかに、たよるものがないのです。」


そう言う、哀しげな声を。


Yは生首ひとつとなって、漸く義父に憐れみを感じていた。

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