アーキエンジェ

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第1話 失われた女と失った男

 目の前に彼女がいる。

「ねえ、煙児えんじ――」

 いつものバー、いつもの彼女。だが彼女の言葉は俺の名を呼んでいることしかわからない。もう、“その声も思い出せない”。

「煙児――」

 俺の名を呼ぶ唇の動き。そして彼女から吐き出された煙草の煙、匂い。もう俺にわかることはそれしかない。それ以外はもう、“覚えていない”。

「煙児――」

 目の前がまどろんでいく。煙も、その匂いも遠ざかる。いつもの夢、繰り返される夢。俺はいつまで、この夢を見ていられるのだろうか――。



 ●



「おい、急げ馬鹿!」

 薄暗い地下、そこに作られたバー。客は誰一人いないそこに、客らしからぬ二人の黒服が入ってくる。

「だってアニキ、ブツが重くて――」

「馬鹿野郎! アタッシュケース一つ分の煙草がなんだ、重いとかぬかすな」

 急ぎ足でカウンターにたどり着いた二人。それを迎えるのは険しい顔のマスターだ。

「取引の現場に遅刻。しかも不穏な単語ばかり喋りやがって。危ない橋を渡ってるんだ、もう少し慎重になれ」

「へへ、すまねえ」

 マスターの言葉に、しかし黒服の男は懲りない顔で持ってきたアタッシュケースをカウンターに載せた。

「……」

 マスターはため息ひとつだけを残して、アタッシュケースを開ける。中に敷き詰められていたのは全て煙草。煙の無い電子煙草ではない、今の世の中では禁止されている煙の出る紙巻煙草だ。

「一つ開けるぞ」

 そう言うとマスターは敷き詰められている煙草から一本、透明な袋を割いて取り出す。

「――」

 煙草を鼻に押し当て、その匂いを嗅ぐ。マスターの眉が、ピクリと動いた。

「どうだ? 今回は特別製だぜ」

 黒服の言葉にマスターが応える。

「しっかりとした煙草の匂い、そしてその中にバニラの様なフレーバー。……キャスターか」

 マスターの顔が、わずかだがほころんで見えた。

「そうだよキャスター! そのまま当時の本物じゃねえが、それを作ってくれる奴がいたんだぜ!」

 黒服もつられたように笑顔を見せる。二人ともその顔は昔を懐かしむ顔だ。

「このバニラフレーバー。昔はここでよく嗅いだもんだ」

 マスターがバーを見渡す。その目は今のバーではない、在りし日のバーを見つめている。西暦二千二十五年の現在、多くの嗜好品が社会のグローバル化とともに禁止されていた。酒やコーヒーなどは全てではないが、徹底的に排除されたのは煙草だった。電子煙草こそ細々と残ったものの、パイプ、煙管、シガー、そして紙巻。その全てが今の日本ではご禁制の品だ。

「五年前のオリンピックさえなけりゃなあ――」

「また始まったぜ、マスターの昔話」

 二千二十年東京オリンピック。それが日本の急激なグローバル化を推し進めた原因だ。喫煙という行為に対し、分煙などの対策や配慮が未熟な日本で、急激に進められたグローバル化の波はそれらを排除することで一気に進んだ形となった。波を利用した一部の嫌煙家が声を大きくしてすべて仕切ったのだ。そうして作られた国際社会に開いた国、日本。街の景観からいかがわしいものは一切消され、きれいに見える表の顔。しかし、その裏で不満を抱えた愛煙家などが煙草の闇取引に応じるのは自明だった。

「煙草だけじゃない。酒だって残ってるものは少ない。多くの名酒、そしてそれを作る技術者が消えていった。いやな時代だ」

 マスターの顔は悲しみに曇っていた。嗜好品の禁止は多くの産業にダメージを与え、結果として残ったのは多額の増税制度だ。見た目だけがきれいで、だれもが不満を抱いて生きる。今の日本はそんな場所だった。

「お前たち、一杯やっていくか?」

 唐突なマスターの言葉。しかし黒服二人は待ってましたとばかりにカウンターに供えられた小さめのソファーに体をねじ込む。

「へへ、やっぱそうこなくちゃな!」

「禁制品じゃないんだが、久しぶりにいいウィスキーが手に入ったんでな」

「いいねえ! 最近ピスばっかでうんざりしてたんだ」

 ピス、つまり小便。酒の多くを禁止とした日本で、高額になった輸入品の酒以外に一般流通しているのは厳しい制約に基づいたカロリーや糖質などをカットしたビールだ。ノンアルコールやもともとあった健康志向の糖質オフビールなど、そういったものがクリーンな酒というイメージでかろうじて残っているのだ。だが、やはりそういったものは本来の酒の味とは程遠く、酒の愛好家たちからは小便と揶揄されてピスと呼ばれている。

 マスターが取り出したウィスキーのボトル。それを見て黒服が色めき立つ。

「おおお! タリスカーじゃねえか!」

「アニキ、今日は最高ですね!」

 タリスカー。スコットランドで作られている特徴的な味のウィスキーだ。スパイシーな塩味が強く、香りも強くてスモーキー。甘いバニラフレーバーのキャスターと合わせれば、塩味と甘味で永遠に飲んでいられるかもしれない。

「飲み方はどうする?」

 マスターの問いに、しかし答えたのは黒服ではなかった。

「トニック割だ。そいつが俺の一押しでね」

 はっとして一斉にバーの入り口に目を向ける三人。そこにいたのはやや奇妙な風体の男だった。黒い長袖のシャツに黒いストレートパンツ、しかしその上に着ているのはえんじ色の甚平だ。

「誰だてめえ!」

 立ち上がった黒服が吠える。その手にはすでに硬質な鈍い光を反射させる伸縮式の警棒が握られていた。

「アニキ! こいつきっと賞金稼ぎですよ!」

 遅れて立ち上がった子分の黒服。その手は懐からスタンガンを取り出している。銃規制が強い日本では比較的手に入りやすいゴロツキ定番の武器といったところだ。銃も手に入らなくはないが、犯罪に手を染める人間が増えた分、その全員が銃を気軽に持てるわけでもない。

「ご名答」

 甚平男は言うとともに手近にあったメニューの書かれたボードに手をかけた。

 ご禁制の品を地下で取引する犯罪者が増える一方、警察機関のカバーできる範囲を増やすことは容易ではなく、政府が苦肉の策で施行したのが賞金稼ぎ制度だ。最初は通報に協力程度だったものが、直に逮捕することで懸賞金を増やせるとなってからは現場に踏み込んで直に犯人を抑えるという人間があふれ始めた。その背景に嗜好品禁止への人々のうっ憤があったのも明白だ。暴力とは最も身近で手軽な娯楽なのだ。危険さえ顧みなければだが。

「ふん、たかが一人の賞金稼ぎ、しかも手ぶらとなればびびりゃしねえぜ!」

 黒服が言った瞬間、隣の子分が吹っ飛んだ。バーカウンターを飛び越えて、バックバーと呼ばれるカウンターの後ろにある酒の棚に突き刺さるように激突する。

「な――!?」

 黒服とマスターが子分を見る。子分は後頭部からバックバーに突き刺さるように倒れ、その顔には先ほど甚平男が手をかけたメニューボードが突き刺さっていた。

 子分の体はけいれんし、力の抜けた手から解き放たれたスタンガンが、ばちばちと床で火花を散らしている。

「安心しろ、殺しはしねえ。殺人じゃ賞金どころかこっちがお縄だからな」

 甚平男はそう言うとまた手近にあったテーブルの上の小さな籠、そのなかの食事用ナイフに手を伸ばす。

「まさか、“暗器の煙児”――!?」

 マスターの言葉。しかし同時に走り出したのは黒服だ。

「ちっくしょおおおお!!」

 叫びながら警棒を振り上げる。だが、それを叩きつけようとした瞬間、甚平男、煙児はナイフを振りぬいていた。

「があ!?」

 黒服の警棒を持った手が弾かれたように跳ね上がる。食事用のナイフが恐ろしいほどの力で黒服の手を弾いたのだ。黒服の右腕は手の甲にえぐるような切り傷を付けられるとともにひしゃげており、警棒は手を離れて宙を舞った。

「――!」

 無音の呼気。煙児の蹴りが黒服の顔面を捉える。たまらず横倒れに吹っ飛ばされた黒服は、しかし顎を砕かれていてすでに失神していた。

「ふむ」

 煙児は右手に残ったこちらもまたひしゃげているナイフを気軽にごみを捨てるかのように放り投げた。投げられたナイフがカウンターに立ち尽くすマスターの足元でかしゃんと乾いた音を立てる。ナイフを見つめたマスターが呟いた。

「手にしたもの全てを恐ろしい凶器として扱う凄腕の賞金稼ぎ、暗器の煙児――」

 マスターの乾いたのどが、つばを飲み込んだ。

「知ってるならおとなしく逮捕されてくれ」

 煙児の言葉に、マスターはただ目を閉じて息を吐く。そして肩の力が抜けていった。



 ●



 パトカーが夜の路上に止まっている。その屋根に備え付けられた大きな赤いランプが光を放つ。しかしランプは光を出すだけで、警報音を鳴らしてはいなかった。

「ご苦労さん」

 パトカーの近く、警官が数人いるその現場に、よれたコート姿の男が歩み寄る。

「は、お疲れ様です警部」

 警部と呼ばれたコート男は返事を返した警官の顔を見る。白人だった。

「増えたなあ、外国人――」

「は?」

「いや、何でもない。現場を案内してくれ」

 急激なグローバル化は日本社会に外国人の進出を大きく進めた。今ではいたるところに様々な人種を見ることができる。だがそれはいいことのように見えて問題が多かった。違う人種を受け入れる。そう言うと聞こえはいいが、ようは受け入れるの解釈を広げ過ぎたのだ。等しく人権を持つのだから、外国人を理由に日本の様々な職務についてはいけないなどと言ってはならない。そんな言葉がいつだかの国会で飛ばされ、ニュースになったことがある。そして許容範囲を広げ過ぎた日本はすでに、誰の国だかわからないようなところも出てきてしまったのだ。

このままじゃ自衛隊も危ねえな――。

 警部はそう思いながら白人警官の後をついて行く。そして足を踏み入れたのは地下のバー。入り口のドアはそのままであるものの、中は少々荒れていた。特にカウンターの後ろ、バックバーの破損が酷い。そんなバーのカウンターに、煙児が立っていた。

「よう、煙児」

 警部は気軽に声をかける。

「あん? なんだ、カタメじゃねえか」

 カタメ、煙児は警部をそう呼んだ。

「はは、そう呼ばれるのも少し久しくなったな」

 警部は笑う。警部の髪は左サイドの前髪だけが長く、よく見れば面長な美形の顔を半分隠していた。まさに片目だ。

「吸うか?」

 カタメは煙児に手を差し出した。そこに握られているのは合法の電子煙草だ。

「――」

 煙児はしばらく黙ってそれを見つめた。しかし、結局受け取りはしなかった。

「いらん。それより――」

「わかってるよ」

 カタメが白人警官に押収した紙巻き煙草を一本持ってこさせる。

「ほら」

 カタメが投げてよこしたそれを、煙児は空中でキャッチ。そのまましばらく見つめて、そして鼻にあてがうようにその匂いを嗅ぐ。

「ああ――」

 その一瞬だけ、煙児は思い出す。煙草の匂いの向こうに、もういなくなってしまったその女を。

「……」

 カタメはただ悲しそうな、そんな複雑な表情で煙児を見つめた。

「あの、警部。よろしいので?」

 白人警官がカタメに尋ねる。

「いいんだよ、火をつけたりはしない。それがあいつのルールだ」

 はあ、とわかったようなわからないような顔の警官に、カタメはハの字の眉で応じた。少し多めに見てやってくれ。そう言い聞かせる。

 しばらくして、煙児は煙草をカタメに放って返した。

「もういいのか?」

 キャッチして言う。

「ああ、十分だ」

 煙児はそれだけ言うと、現場から立ち去ろうと歩き出した。カタメが後ろに続く。

「やっぱり吸えよ、電子煙草」

 少しは違うぜ、そうカタメは煙児に言う。だが煙児は首を縦には振らない。

「それじゃダメなんだ。それは――、違うんだ」

 カタメの眉が、またハの字になる。困ったような、悲しいような、何もしてやれないやるせなさ。それがカタメが感じる感情だった。

 やがて現場から少し離れた路上で、カタメだけが足を止めた。

「何かあれば俺に言えよ。元相棒としてできることはするぜ」

 カタメの言葉。しかし足を止めずに、煙児はただ右手だけを軽く上げた。

「シュンレイちゃんによろしくなー!」

 去り行く背中に、カタメの声が寂し気に響いた。

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