鎌倉陰陽師

千聚

第1話 白虹貫日

 夜更けに、耳がめざめ、脳裡が覚醒し、瞳が生き返り、瞼が上がった。

 僅かな気配に耳を澄ます。音など少しもなく、雨がおとなしく降っている。まるで、傍らに眠る愛しい室清子せいしのようだと、頬が静々とゆるむ。

 御所の屋根色を変え、庭樹の葉を密やかに揺らし、池の水面に滑り込む。

 遣戸から忍び込み、几帳きちょうの内を舞う小鳥に話しかけるのは、桜の花を流すいたずら雨か。

 いちど捉えた雨の音は、もう消えはしない。

 ああ、明日は蹴鞠けまりだったと眠れなくなる若き将軍は、源実朝みなもとのさねともだ。


 あお葉萌えだす鎌倉の遠近に、誰が延命祈祷したのか桜色が取り澄ましたまま居残っている。

 御所の庭から、蹴鞠の音が「たーい」「へーい」と泰平を謳歌し空高く広がった。昨夜の雨は誰も知らず、木立の清々しさを無償で楽しんでいる。

 春を惜しむ由比ヶ浜には、波が慎ましく打ち寄せ、潮風もおっとりと心地よい。

 時の政治を司る小さな街は、しばしの平安をむさぼり穏やかな陽の光りが溢れていた。

 その日輪にちりんに向かって、一条の光りが真っ直ぐに生まれた。

 太陽は慄き、穏やかな顔を捨てて、抗うように激しく瞬いた。


 今しも稲村ヶ崎の崖から湧き出した影が二つ。

 崖の岩色に似て地味な狩衣を着た安倍晴秀あべのはるひでと従者の少年佐助であった。

 二人は、面差しが似て親子のようだ。

「何と、不吉な!」

 空を見上げた晴秀の鋭い声。

「えっ、何でございますか?」

 問う佐助に、晴秀の華奢な右人差し指が上空に伸びる。

「あれを見てみろ」

「はい、あの光りは何でございますか?」

「あれは、白虹貫日はっこうかんじつと申して、太陽を主君に、白虹を兵と見立て、主君に弓引く不穏の前兆と云われている」

「何か、良くないことが起こる兆しでございますか」

「そうでなければ良いのだが‥‥‥」

 白虹を見あげる二人の姿を潮風がゆらゆらとなぶる。


 安倍晴秀は、稲瀬川河口から北上し、若宮大路の西を走る今小路を足早に御所へ急いだ。

 晴秀は、陰陽師である。

 三代将軍源実朝に近侍する父の安倍親職あべのちかもとの下で助役すけやくを務めている。


 安倍親職を探したが、いなかった。

 廊下で出会った上役陰陽師に、白虹が出たと告げたが、取り合ってもらえず、「不穏なことを告げる奴」として無視された。

 間もなく仕事場を追われた。

 理由は、白虹の事ばかりではない。以前から問題があったのだ。

 復職を求めて親職が奔走したが、「もういいです」と晴秀は首を振った。

 晴秀は、他の陰陽師とは少し違っていた。

 陰陽の学には優れていなかったが、見えないものが見えた。

 それは、必ずしも幸多い人生ではない。官に仕える陰陽師にとってもだ。

 晴秀は、自分の時間が欲しかった。

 己の才をもっと伸ばす時間だ。

 夜空の星の運行も、荒れ狂う天候の理も知りえたい。

 あの白虹は、なぜ生まれたのか? 本当は何を意味するのかも解き明かしたい。


 白虹は、己がどのように生まれたのかを知らない。

 気が付けば、鎌倉を見下ろす天外にいた。太陽が眩しい。負けてなるものかと怒りに似た光を弾けさせた。

 鋭い視線に、鎌倉の海岸を見下ろした。子供を連れた男の視線だった。

 それは、白虹を咎め、不安を含んで見つめて来る。

 白虹は、なぜ咎められるのか分からない。

 己が、何をしたかと問いたい気分だ。

 鎌倉という郷は、何時もうんうんと熱気を上空に発散している。

 薄っすらと血の匂いがし、白虹の嗅覚を刺激する。

 白虹は、気が付けば、何時も焦りを感じている。


 早く早く、平らな世を作らなければいけない。御家人も下人も男も女も共に幸を得ることの出来る世が、真っ当な世だと思っている。

 なんと平等な考え方か。誰が植え込んだのか、白虹はもちろん知らない。

 戦いがまだまだ続くことを感じている。

 であるならば、武術は素手としたい。戦う相手の息の根を止めない。逃げる道をそっと示す。


 あの男。

 おれを睨んだあの男なら、武器を使わず、強い意志で敵を倒す方法を知っているかもしれない。

 おれの意識を理解し、共に歩むことも出来るか。

 もし、人間に生まれ変わるなら、あの男の姿を借り、おれの思いを具現化したい。

 そんなことも考える白虹であった。

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