すきま家 ~甘いもの、はじめました~

春野こもも

序章 隙間の先にあったのは

一、隙間の先にあったのは

 暗闇の中、前へ進むべくもつれそうになる足を必死で交互に動かす。肺に酸素を取り込もうと精一杯大きく口を開くが、そろそろ息をするのが苦しくなってきた。体力的にもう限界かもしれない。

 いくら必死で走っても所詮は子供の足だ。このままではいずれ奴らに追いつかれてしまう。捕まるわけにはいかない。僕はまだ死ぬわけにはいかないんだ。


「おいっ! こっちだ!」

「クソッ、ちょこまか逃げやがって!」


 夜の九時を回っているからか、商店街にもかかわらず、この通りには灯りがなく暗闇に包まれていた。闇の中の逃亡は、夜目と鼻の利く僕にとっては好都合だ。

 通りの遥か後ろから追っ手の声が聞こえてくる。上手くまいたと思っていたのに、どうやらこの通りに入ったのが見つかってしまったみたいだ。このままだと捕まってしまう。どうしたら……。

 追っ手の視界に入る前に身を隠さなくては拙いと考えて、走っていた通りの脇にある、建物と建物の間の狭い隙間に入り込んだ。人一人がどうにか通れる幅だ。

 あとは追っ手の男たちが通り過ぎるのを息を潜めて待つしかない。僕は路地の間に設置してあるゴミ箱の陰に身を隠した。


「はっ、はっ、……」


 息を整えている間にも追っ手の声が次第に近付いてくる。奴らに気付かれるわけにはいかない。二人の男が真横を通過する直前に、僕はグッと呼吸を止めた。


「おい、本当にこっちに来たのか!?」

「ああ、間違いない。もうすぐ追いつくはずだ」

「チッ。全く、手間ぁかけさせやがって!」


 すぐ真横から舌打ち混じりの男たちの会話が聞こえてきた。ゴミ箱の陰で、僕は奴らが走り去っていくのを身じろぎ一つせずに待つ。極度の緊張による冷たい汗が背中を伝って落ちていくのを感じた。

 奴らの匂いが遠ざかって消えたところで、ようやく安堵の息を吐いた。助かった……。

 僕は路地に座り込んだまま腰に差した短剣を抜き、広めの刃に己の顔を映した。僅かな明かりを頼りに曇りなく磨かれた刃を覗き込むと、顔中血だらけの幼い顔立ちの少年が映っていた。

 頭の上の鈍色にびいろの耳は警戒するようにピンと立ったままで、耳の根元にも血がこびりついて固まっている。


「こんな姿になってしまうなんて……。力もだいぶ抑えられてしまってる……」


 このままここでのんびり座り込んでいるわけにはいかない。追っ手が僕を見失ったことに気付いて、すぐにでも引き返してくるかもしれない。

 短剣をしまったあと、軋む体に鞭打ってよろよろと立ち上がった。そして左上腕部に負った傷を右手で押さえながら、なんとか路地の奥へと足を引き摺っていく。

 体中の酷い痛みのせいで意識を保つのがやっとだ。だけど今ここで倒れてしまったが最後、引き返してきた奴らに見つかってしまうかもしれない。そして今度見つかったら確実に殺される。


「はぁっ、はぁっ。絶対に……捕まるわけには、いかない……!」


 力の入らない足をなんとか動かして狭い路地の先へ進むと、周囲を建物に囲まれた十メートル四方くらいの開けた石畳の空間へと辿り着いた。

 吹き抜けの上方を仰ぎ見ると、星空が周囲の建物の屋根に切り取られた形で広がっている。建物が密集しているはずの隙間に、こんな空間が存在するなんて実に不可解だ。


「建物が密集してるはずの場所にどうしてこんな場所が……?」


 その狭い空間の奥に、一件の小さな建物が立っていた。建物の窓から漏れる灯りが辺りの暗闇をぼんやりと照らしている。そして入口の扉の右上には『すきま家』と書かれた木製の看板が吊り下げられている。どうやら何かの店みたいだ。

 この際逃げのびることができるなら何でもいい。僕は藁にも縋る思いで店の扉へと手を伸ばした。

 カランカランという不思議な鐘の音がした。扉を開けて中へ入ると、店内には甘いバニラの香りが漂っている。


「いらっしゃいませ」


 可愛らしい澄んだ声が突然耳に飛び込んできた。声のほうに目を向けると、奥のカウンターの向こうに一人の小柄な少女が座っていた。

 背中まで伸ばした黒い髪を後ろで三つ編みに纏めていて、とても綺麗な顔立ちをしている。猫のような黒い大きな瞳が印象的な、十五~六才くらいの少女だ。

 僕は少女に向かって一歩一歩ゆっくりと足を動かす。意識の限界が近い。

 ぐらぐらと揺れ始めた視界の中で、黒いワンピースに白いエプロンを身に着けた清楚な装いの少女が、両手で新聞を開いたまま、大きく見開かれた目をこちらへと向けている。こんな血だらけの獣人の子どもが突然入って来たんだ。驚くのも当然だ。

 それでも僕は僅かに残っていた最後の力で、なんとか少女に向かって声を絞り出した。


「たすけ、て……」


 そのまま視界が歪んでぐるりと傾く。僕を見つめる少女の吸い込まれるような黒い瞳の記憶を最後に、僕の意識はそれっきりぷつりと途絶えた。

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