51

 同時に濃い霧が一気に吹き上がった。

 それは周囲を完全に覆い隠し、ブラックコーヒーに大量のコンデンスミルクを溶かし込んだかのように夜の黒を白へと変えた。


 煙幕だ。

 遅れてそう認識した。


 ふいに袖を掴まれる感覚を覚え、次に耳元から声がきた。


「遅れて、ごめんなさい」


 おそらく、普段のならそんなことはできなかっただろう。

 俺を力づくで移動させるなんて力は、彼女には備わっていない。

 けれど極限の状況と、それに対して虚脱した俺の体と心は、驚くほどあっさりとそれに身を委ねた。


 濃霧のなかで艶めく綺麗な黒髪をぼんやりと眺めながら、引かれた手に従って走った。

 なにもかもに失望され、大海原を漂流するひとりの遭難者となった俺には、弔花の後ろ姿だけが唯一の道しるべだった。



  ◇



 翌日の朝。

 うすらぼけた視界が、かろうじて自室の天井だとわかる像を結んだ。


 自室。あちらの世界ではなく、稲葉翔として生まれたこの世界で、俺は朝を迎えていた。

 あのあとのことは、よく覚えていない。ここでこうしてベッドに横たわっているということは、ログアウトはしたんだろう。それとも、途中であいつらに捕まって殺されたか。


 あいつら――。

 全てにおいて格上のオクトーと、おそるべき剣術を備えた謎の男。そしてその陣営に下った――リズレッド。


『君にはがっかりだ。消えてくれ、私の前から』


 炎のなかで背を向けるリズレッドの幻想が、ゆっくりと振り向いて、そう言った。


「……っう。プ……ぉ、あ……っ」


 胃がひっくり返り、中のものを全てぶちまけようと激しい悪寒を走らせた。

 だが漏れるのは嗚咽のみで、あとは少量の黄色い液体が口から垂れるのみ。そういえば、昨日の夜もこんなことを繰り返していたような――。


 昨晩……昨晩、なにがあったか。


 鮮明に思い出そうとすればするほど、もはや空っぽになったはずの中身をさらに放り出さんと内腑がきつく締め上がった。

 二度目の嘔吐感に耐えられず口に手を抑えたところで、ふいに部屋の扉が開いた。


「大丈夫……?」


 ぽかんとなった。

 ここには俺ひとりしかいないはずだったし、いままであの扉を、俺以外の人が開けることはなかった。この空間で自分以外の人間を見るのは、これが初めてだった。

 だが静謐な声音とともに現れたその主は、こちらのそんな動揺など気にせずベッドへ歩み寄った。


「また……戻しちゃったの……? 待ってて……いま、拭くものをもってくるから……」


 慣れた事のように事態を把握し、的確に処置しようとする彼女。

 思わず声が上がった。


「え、あ……いや、待ってくれ、弔花!」 

「……なに?」

「なにって……いつからここに?」

「? 覚えてないの……?」

「……悪い。昨日のことは……う!?」


 思い出そうとすると、まるでそれを妨げるように胃と脳がシェイクされた。

 弔花が居間へ向いた足を戻し、再びベッドへ近寄ると、嗚咽を上げる俺の頭にゆっくりと手を乗せた。 


「落ち着いて……大丈夫。ゆっくり、思い出せばいいから……」


 そう言って優しく頭を撫でる彼女の声を聞いたとき、心のなかの緊張が一気に解きほぐされたような感覚を覚えた。

 横に腰を下ろした彼女が、無表情だがどこか暖かさを感じさせる瞳でこちらをまっすぐと見た。もう誰にも気にかけられることはないだろうと漠然と思っていたのに。

 ぴんと張り詰めていた精神がそこでふいにたわみ、それが凄まじい睡魔となって襲いかかってきた。

 視界がぼやけ、再度眠りの海へ沈む。


 次に意識が戻ったのは昼過ぎで、相変わらず弔花はそこにいた。

 ひとり暮らしの男の部屋で、なにか時間を潰せるものがあるというわけでもないだろうに、時折うなされる俺をずっと見ていたくれたらしい。


「ありがとう」


 ようやくその言葉を出せた。

 恥ずかしいことにさっきまで、ここまでしてくれている彼女に感謝のひとつもしていないことに、気づきもしていなかった。

 断続的に襲いくる悪寒と胸の苦しみが、そんな当たり前のことさえ考え至るのを許さなかったらしい。


「気にしないで……あなたは……大切だから。ほら……それよりも」


 特に気にする風でもなく、彼女は応えた。そして膝の上のトレイにのせた雑炊をレンゲで掬うと、こっちへ差し出した。

 食べろ、ということらしい。


「あの……そこまでしてもらわなくても」

「? どうしたの……? これ、嫌い……?」

「いや、そういうわけじゃないけど」

「じゃあほら……あーん」


 丁寧に自分の吐息で熱を冷ましてお膳立てまでしてくれる弔花に、これ以上拒否を示しても失礼になる。

 そして情けないことに、完全に叩きのめされた俺の心は、いまの弔花に対する抵抗などそもそもできなかった。


 差し出されたスプーンをそのまま口へ運ぶと、にんじんや卵の素朴な味が舌を満たした。

 いつも食べている出来合えの、鋭くきつい味付けではなく、暖かに包み込むような味だった。

 そして気づけば、ずいぶんと久しぶりの、自分のためだけに人が作ってくれた料理だった。

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