27

 ちりちりとした空気が互いの間で宙を焦げ付かせた。

 あいつは言った。鬼ごっこと。つまりどこまでも逃げる気ということだ。決して向こうから手は出さず、こちらが術中にはまるまで、いつまでも待つ。


 単純な力量だけだったら、おそらく俺はこいつに勝てる。

 けれど策略を交えた局面では、こうも差がつくのか。

 平和な世界で生きてきた俺と、魔物や、ときには同じ人と殺し合いをしてきたあいつらとの、圧倒的な経験の差がいまの状況だった。


「ラビさん、ここは私が引き受けます! だからリズさんのほうを!」

「駄目だ」

「けれど……!」

「駄目だ!」


 奴へ迫っても、後ろへ救助へ言っても罠に落ちる。

 そしてその中でも、アミュレを囮にすることは愚中の愚だった。この男がアミュレにただならぬ執着を持っているのは明らかで、彼女を一人ここに残すことがどれだけ危険かは想像する必要もない。


「どうしたの? 加勢にいかないの? かわいそうに、見殺しかあ。 薄情な友達を持つと苦労するね」


 屋根の上で腰を下ろしたパイルが、宙で足をぶらつかせながら嘲笑った。

 だがそのとき、路地の雑物を吹き飛ばしながら、突然なにかが飛び込んできた。


「!?」


 全員の視線がそれに集中した。

 俺とパイルの間に割って入るように吹き飛んできたそれは、盛大に地面へ叩きつけられながら二転三転して近くの家屋の壁に衝突して止まった。


 あれは……あれは、なんだ?

 したたかなダメージを受けた様子のそれは、一見して何物なのか判断できない姿をしていた。


 率直に言えば、大きな黒い爬虫類だった。

 四つ足で胴長。尻尾もあり、耳が異様に長い。頭部から生えた髪の毛らしきものが、やけに艶やかに光っていた。


「薄情な友人とは、自分のことか?」


 緊迫した空気を清浄するような、鈴音の声が響いた。

 次いで、月色の髪をなびかせて騎士が舞台へと上がる。


「彼我の力量すら計れずに策士気取りとは、この魔堕ちも報われないな」


 右手に持つ白色の剣が、横に振り払われた。

 なんでもないことのように。策略もなにもかも、悠然と無に還すかのように。


「リズレッド!」

「ラビ、私が不甲斐ないばかりに事態を解決するのが遅くなった。すまない」


 さっきまで街の雰囲気に飲まれていた彼女とは別人のような、清爽な顔立ちだった。

 そしてそれに遅れて、路地から弔花が駆けてきた。


「ごめんなさい……遅れた……」


 多分こっちは、全力疾走してきたんだろう。

 召喚者のため疲れた様子はないが、向こうの世界だったら大汗をかいて肩で息をしているであろう弔花が、申し訳なさそうに告げた。


 ともあれ、これで全員が揃った。

 こちらは四人で、向こうは一人と一体。


 そしてなにより、いまのリズレッドにはおそらく、誰も勝てない。


「……おいおい」


 パイルがぽかんと口を開け、瞠目しながら言った。


「お前がやったのか、そいつを。その魔堕ちを……? 禁忌を?」


 そこで、ようやく俺も彼女と共に舞台へと上がった異形の者へと意識が向いた。


「そうだリズレッド、いま、こいつのことを魔堕ちって」

「ああ、よく見ておくんだラビ。これが神に背を向けて、魔王へと下った者が成り果てる姿だ」


 ……あれが魔堕ち……人だった者の姿、だって?

 あれじゃもはや、人ですらない。


『■■■■■■■■■■■■■、■■■!』


 四つ足の魔堕ちは、自身にダメージを与えたリズレッドへと警戒の奇声を発している。

 だがその声は、でたらめに金切り声をザッピングしたようなもので、とても理解できるものではなかった。


「ひどい……人間が、こんなに姿になるなんて……」


 アミュレが呻いた。

 弔花も同じように、険しい表情を向けている。


「人身売買だけでなく、魔堕ちまで従えていたとはな。だが問題はそれだけじゃない。……貴様、そいつをどうやって制御下に置いた」

「誠心誠意の愛情を持って育てのさ」

「ふざけるな。そいつらに理性などない。人間だったころの感情など、欠けらも残ってなどいない。それはどんな魔堕ちも例外はない。それがなぜ、お前の命令に従っている」

「そんなに怒らないでよ。それに、怒りたいのは僕のほうだ。そいつのレベルは25でね、ここまで育てるのにだいぶ手間をかけたんだ。だから、もう少し苦戦してくれてもいいんじゃないのかな」


 なおも飄然と言い放つパイルに、リズレッドが事も無げに言う。


「25か……もう少し低いかと思っていたが、不味いな、感覚が鈍ってきている」

「なっ……」

「ところで大きいの。お前のレベルはいくつなんだ? 30か? 40か? どちらにせよ時間が惜しい。その魔堕ちと一緒にかかってきてくれると助かるんだが」


 泰然と言い放つ騎士に、この場にいる全ての人間が息を飲んだ。

 圧倒的だった。影から影へ超速で動く殺人鬼も、禁忌を冒して成り果てた人外も、そして企てられた挟撃も。その圧倒的の前には、すべてが児戯同然だった。


「お前、ただのエルフじゃないのか」

「それは自分で確かめてみたらどうだ」

「……作戦、変更だ」


 パイルが重く下ろしていた腰を上げ、屋根の上に立った。

 その目にはもうさっきまでの嘲笑も、忿怒の眼光も宿ってはいなかった。ただ冷静に事態の流れを察知して、的確に動くことを義務付けられた人形のような、感情のない瞳だった。

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