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二人の様子が明らかに変わった。
明確な殺意が再び放出され始める。ミノタウロスはこちらへ振り返ると、距離を取ろうとしていた俺に気づき、口端を釣り上げた。
『どうした、先ほどまでの威勢は?』
レオナスという加勢が入り、折れていた心は完全に修復されているようだった。
いや、一度泥を付けられた屈辱によって、怒りの度合いがさっきよりも大きく燃え上がっているのがわかった。
『お前はただでは殺さん。まずはあそこの勇者を、このレオナスが屠る。英雄は世界に二人もいらんからな。目の前であの人形が壊れる様を、よく見るがいい』
そう言って、奴の視線がリズレッドへと移った。
気を失い、なんの防衛手段も持たない彼女へ、迷宮の王の傍若な眼光が差し込まれる。
「オッサン、人を食ったことあんのか?」
ミノタウロスの後ろにいるレオナスが、ふいにそんなことを訊いた。
『ふん。そんなもの、あるわけないだろう。体は化物となったが、人間を食うほど堕ちてはおらんわ』
「ふうん」
何故そんなことを訊いたのか、奴はさして疑問にも思っていないようだった。
眼前にいる俺とリズレッドを交互に見据え、どう苦しませて殺すか。それだけを楽しみにしているようだった。
リズレッドにだけは、手を出させるわけにはいかない。
鼓動が早まるなかで、俺はそれだけを考えた。いくらレベルの高いリズレッドでも、無防備な状態で襲われれば一溜まりもない。
『疾風迅雷』のクールタイムはすでに終わり、いつでも発動できる状態だった。
ここは先手で行動を取り、彼女のもとへ一気に走り抜けるしかない。あいつらが本格的に動き出したら、同時に相手をしつつあそこまで行くのは困難だ。
そして、心のなかでスキル発動を唱える。
ミノタウロスがそれと同時に体勢を整え、こちらへの攻撃行動を開始する。
――そのとき、
「オレは食ったよ、人をさ」
そんな独り言のような口調で誰かが語ったあと、異質な光景が俺の目に飛び込んだ。
『……ガ、ぁぐ……?』
直前まで俺への特攻をしかけようとしていたミノタウロスが呻き、ぐらりと巨体を揺らす。
俺の瞳に映ったのは……鈍い光を放つ刀身。
血が滴るそれは、まるで死をすする怪物かのように狂気の光をたたえていた。
そしてその血は間違いなく……この古代図書館最奥の層にて千年を超える時を支配し続けてきた、ミノタウロスのものだった。
俺は目を見張った。
なにかの見間違いかと思って凝視するが、眼前にある光景は変わらず、レオナスが後ろから、仲間であるはずのミノタウロスへと剣を深々と突き刺していた。
腹から飛び出したそれを、迷宮の王は呆然と見つめていた。
痛みに耐えているというより、ただ自分の身になにが起こったか理解できていない様子だった。
『……な、ぜ……?』
途切れ途切れにそう問いかける相手を無視して、レオナスは独り言のような言葉を続けた。
「アンタはきっと、人を食わなかったからそんな失敗作になったんだな。オレがあの繭のなかで、一体なにをしていたかわかるか?」
『? ……そんなことより……剣を……』
「まあ聞けよ。 ……あの繭はな、供物が逃げないための檻なんだよ。この世界の神ってのは随分悪趣味なことしやがる」
『供物……?』
「そうだ。供物だ。繭が形成されてすぐ……オレは、自分のなかのステータスが一気に上がるのを自覚できた。それと同時に、あいつが傍に立ってやがった」
『あいつ……?』
「獅堂京也――あっちの世界のオレだ。オレがこの世界で生まれ変わるには、なんてことはねェ。あいつを食い殺せば良かったんだ。自分自身で、自分をな」
そう語るレオナスの口元は、よく見れば汚れていた。
あれは一体、なんの汚れだ? ……考えようとしたが、脳がそれを拒否した。想像すら拒絶するほどの惨劇が、あの繭のなかで起こったいた。
思考を巡らせる俺を余所に、レオナスは剣をミノタウロスに突き刺したまま、思い切り横へとなぎ払った。
『グベ……っ!?』
奇妙な声を漏らして、ミノタウロスが床へと崩れ落ちた。巨体が倒れた振動が儀式の間を揺らし、俺の膝を揺らした。
腹部の中心から真横へと裂けた腹からおびただしい血と、芋虫のような内腑が見えた。
かろうじて上半身と下半身が繋がっている、という表現しかできないような有り様だった。
『ひっ……ひっ……!? し、死ぬ……!? いやだ、死にたくない、助けて……』
なぜこんな状況に自分がいるのか、なにも理解できないまま自らの死を直感したミノタウロスの瞳から涙が溢れていた。
「大丈夫だ、死にはしねェよ。ちゃんと助けてやるから、『勇者』を信じろって」
刀身に付着した血液を振り払って落としながら、レオナスは事も無げに応えた。
彼がふいに、愕然とその光景を見ていた俺へ視線を向けた。
それだけで全身が総毛立った。
「『トリガー』……この力は、そういう名前なんだろ? ラビ?」
「……ッ」
そこにはいままで見てきたどのレオナスよりも、生気に溢れた男が立っていた。
その生気はぼんやりとだが、ネイティブたちにしか感じない気配だった。
そして男はそんな気配の裏で、なにを考えているかわからない、不安を掻き立てる笑顔を作っていた。
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