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「そんなことは百も承知。子供が大人に叶わないように、この世界はレベルが上の者には、どうあっても叶わないことなんて。……ですが、ここで私が死ねば、あなたはあの子を殺すのでしょう?」

『あの子……? ああ、あの人形のことか。別に、あんなもの壊そうが壊れまいがどちらでも良かったのだが、お前がそうまで守りたいものなら、壊してやったほうが面白そうではあるな』

「……」

『それに、儂が壊さんでも儀式を終えたレオナスがそうするだろう。奴は人形たちのことを、本当に生きた人間だと錯覚しているからん。全く、最近の若造は現実と虚像の区別もつかんらしい』

「ずいぶん辛辣ですわね。なぜそんな評価の彼に手助けを?」

『……』


 ミノタウロスはその質問に対して、自分でも不思議な感覚が内から起こっていることに気づいた。


 痛覚がオンになった状態の彼を殺し、現実のプレイヤーの不審死という事件をもって、かつて研究をともにしていた同僚たちの夢を破壊する。

 このゲームに明日を託した、自分を助けにも来なかった元同僚たちに、社会的弾糾による夢の終わりをもたらす。


 それがミノタウロスがレオナスと同行する唯一の理由だった。

 もはや現実世界では消失してしまったであろう自身の身体。もはや帰ることのできない故郷。

 永遠に鳥かごに閉じ込められた自分にできる、ささやかな復讐。


 ……だが、いま彼に対して抱く価値観が、それとはまた違ったものに変化していることに気づく。


 ずっとひとりで怒り狂うしかなかった二千年間だった。

 正気など保っていたら、とてもではないが耐えられる苦痛ではなかった。

 この世の全てに対する恨み、憎み、怒りだけが、この無限の孤独を課せられた自分に寄り添ってくれる、唯一の友人だった。


 だがそこに、突然来訪者が現れた。

 彼は自分と同じ種に属する人間だった。

 人類が歴史になかで連綿と作り上げてきた社会的秩序。誰かと助けたり、助けられることを喜びとして、幼少期に道徳を強制的にインストールされる現代社会においてのイレギュラー。


 いまの時代に生まれてはいけない異分子。

 それが自分と彼だった。


 ひるがえれば現実世界で軍研究に勤め、伴侶を娶り家庭を築いていたときでさえ、本当の意味では孤独だったように思う。

 そしてそれが普通だとも思っていた。

 自分のような異分子は、ほとんどが法律国家の枠組みからすら外れ、若年時に逮捕されてその人生を終える者が大半だった。


『法のなかに生きる異分子』――まだ毛だらけの化物になる前、彼は自分自身をそう仮称していた。もっとも、今では立派な『牢のなかに生きる異分子』となったが。


 腐肉食いスカベンジャー――あの男は自分をそう呼んだ。

 それは名称がどうであれ、指し示す根幹は同じものだった。


 まさかこんな虚像の世界の地下深い迷宮の奥で、現実世界では出会うことがなかった同族に会うとは思いもしなかった。

 だからこそ、いま目の前で、腐肉食いのなり損ないとなった剣士に問われた『なぜ』を考察したとき、胸に湧いたのは肯定でも否定でもなかった。


『人の世から弾かれた者が、その殻を破り人を捨てようとしているのだ。それを否定すれば、儂自身をも否定することになろうが』


 それが魔物へと堕ちたかつての人間が導きだした答えだった。

 あくまでも自分自身のためだが、もはや殺すためでもなければ、生かすためでもない。


 レオナスの生き方に自分を重ねて、道半ばで古代図書館に幽閉されて全てが終わった自分の代わりに、思いを果たさせるために。

 それがミノタウロスに残る最後の人間性だとは、彼自身も気づきはしなかった。


「……そうですか」


 対峙する黒神の剣士が、少しだけ目を伏せてそう呟いた。


「ではもう、何も語ることはありませんわね。お互いの信念が交わらなかった時点で、もう会話など意味はないのですから」

『言葉以外なら意味があると? 自分の非力さをまだ理解していないのか。言葉でも力でも、お前が儂に勝てるものなど何もない』

「なにもなくても……」


 鏡花はそこで言葉を区切ると、横目でちらりと儀式の間の隅を見た。

 先ほど助け出したアミュレが、そこには静かに横たわっている。


「……何もなくても、やらなければいけない時もあります」


 言葉の裏に確かな決意を秘めて、剣士が最後の戦いへと臨む。

 それが彼女の自身の心の変化によるものだとは、当人も気づいてはいなかった。


 ネイティブを人と認識できず、世界に馴染めずにいた剣士は、このとき初めて明確にアミュレへの死を避けようとしていた。

 それこそがネイティブを生きた人間だと認識した証だった。


 だが、いまそれを自覚できないにも無理はなかった。

 迫り来るは自分の同族の成れの果て。人間の闇を見て育った彼女にとって、対峙する化物はまさしく幼少の頃からのトラウマの具現に等しかった。しかも、力量は圧倒的に相手が上という状況で。

 全神経をミノタウロスの挙動に振り向けるしか、この状況を打破する術はなかった。

 

 じりじりと距離を詰めてお互いの攻撃の先触れを知覚し合う。

 鏡花にとってはまるで一本の網を渡るかの如き緊迫が、ミノタウロスにとっては、同族のなり損ないに制裁を与えるため、ゆっくりと恐怖に身を浸らせる意味合いでの読み合いだった。


 たとえひとつひとつの攻撃が引っ掻き傷にすぎなくても、それが積み重なればいつかは活路が開ける。

 速度だけが唯一の武器である鏡花には、その戦法だけがアミュレを――そして自分に思いを託して、いまは傷を癒すリズレッドを守りきる方法だった。

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