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 メフィアスの息を呑む様子が伝わってきた。きっと脳裏では、必死に思い返そうとしているのだろう。

 過去に自分が手を染めてきた、赦されることなき行いの数々を。……やがて奴の四肢はその全てが塵となって消え、残るは胴体のみ。美麗だった漆黒のドレスはその主人を失い、虚しく空にはためく。だというのに、


「――ふふ、なるほどね。確かにそれなら……この状況にも……納得できる……わ……」


 奴は、嗤った。

 もはや風前の灯である己の命を前にして、だがとても穏やかに。そして誇らしそうに。


「……なぜ笑う?」

「……だって、このダメージが虫どもを潰してきた数に比例するというのなら……これほどの誉れはないもの。私は魔王様のご命令に従ってこの手を血に染めてきたわ。……ならこの痛みは全て、あの御方への私の忠誠の重さと同義。それで命を散らすというのなら、これ以上の褒美は……ない」

「死んでもなお、魔王への忠誠を誓うというのか」


 戦慄する俺に、メフィアスは夜空を見上げて、神へと祈りを捧げる神子のように目を瞑ると、言葉を紡いだ。


「ああ――私が唯一、この総身全てを捧げると誓った魔王様。いまこの死によって――我が命を召し上げ、その誓いを完遂いたします……」


 剣がメフィアスの体からするりと抜けた。四肢を失った彼女が自力で解いたわけではない。死の間際で弛緩した悪魔の肉体が、刃を固定するだけの力を失ったのだ。

 ずるりと地上へ向かって落下する悪意の化身は、最後の最後にその堕天の翼を広げて、辛うじて降下修正を行う。


「……虫どもの巣のなかで生き絶えるなんてご免よ。……そんな侮辱を受けるなら……あの無尽の荒野で……ひとりで……朽ちるわ…………」


 もはや瞳に光はなく、事切れる寸前の彼女はそう言って、業火に燃える街の灯を下から受けながら、暗い闇夜のなかへと落ちていった。


 ――程なくして、メフィアスが絶命したことを知らせるように、メッセージウィンドウに経験値と獲得金額、そしていくらかのアイテムがバッグに収納されたことを示すログが刻まれた。

 六典原罪の一典を討伐したことで得た経験値は凄まじく、俺はレベルを30まで上昇させた――が、そのことによる歓喜など、不思議と微塵も湧かなかった。

 全てを出し切ったからか、この手に残る生物の命を屠った感触からか、ただ最後に俺に見せたメフィアスの穏やかな顔が、頭から離れなかった。


 きっといまわの際に彼女は、自分の全てを捧げた魔王のことを想って逝ったのだろう。

 人を人とも思わず、利己のために使い捨てにし続けてきたメフィアスに同情する気など毛頭ない。――だけどせめて、死ぬ間際の一瞬だけは、どんなものからも解放されて、慕う相手を胸に抱いて、そして果てて欲しいと思った。


 ――だがそんな感情をゆっくりと抱く間も無く、俺の体は運動慣性に従うことになった。

 トリガーの力で大きく跳躍したエネルギーが切れ、頂点で一度、完全な無重力の感覚を味わったかと思えば、次に待っていたのは落下による衝動。体の内に入っているものがすべて上側に引き寄せられ、胃がひっくり返るような吐瀉感。


「――――!?」


 そこでようやく疑問が湧く。このまま大地に叩きつけられたら、果たしてどうなるんだ?

 アバターたるラビの体は、現実世界の翔の体に比べたら遥かに頑丈だ。五メートル程度の高さから落下しても、ほとんどダメージを負うことなどない。だがメフィアスが座していたこの天空は、そんなもので済む高度では到底ない。百メートルをわずかに超えているほどの頂にいる俺が、そのまま運動法則に従って地面に叩きつけられたとき、それは到底耐えられるほどのダメージには止まらず、ラビの体とてバラバラに砕け散るだろう。


 ――そこでふと考える。

 この痛覚が残っている状態でそんな状況になれば、どうなるか?

 答えは決まっている。落下で四散した痛みに耐えられる生物などいるはずもなく、俺は当然絶命する。


「…………くそっ、なにか、なにか手は……!?」


 メフィアスを倒すことだけを考えて、あとのことをまるで考えていなかった。一気に全身から嫌な汗が吹き出し、心拍数がどんどん上昇していくのがわかる。

 俺は藁にもすがる思いでログアウトを実行するが――当然、落下は移動と見なされ、即座にキャンセルが判定される。というよりも、キャンセルされなかったとしても、ログアウトを選択して実際に意識が現実世界にリリースされるのは六〇秒のウェイトタイムが必要なのだ。そんな悠長な時間など、当然いまの状況で残されているはずもない。


 瞠目する間にも降下の速度は増していく。だめだ。やっと奴を倒せたんだ。やっとリズレッドとまた会えるんだ。だというのにそれを目前にして死ぬなんて、そんなことは……!


 唇を噛み締めて案を捻り出そうと思考を巡らせるが、そもそもさっきの戦闘によって体のあちこちが悲鳴を上げ、まともな行動すら取れそうにない。――こうなったら、覚悟を決めるしかない。痛覚が通っているということは、まだトリガーの効果が有効という証だ。むろん、防御力だって跳ね上がっている。疾風迅雷で高度を上乗せし、もうまともな受け身すら取れないこの状況だが、できることがないのなら、あとは心の持ちようを変えるしかない。

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