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「……?」
その顔は、次の瞬間には眉根を寄せた疑念の面持ちとなった。
「ゥ……ガ、ウ…………」
獣の拳はアミュレの頭からわずか上で、停止していた。もうひと押し腕を下方に振り下ろせば、バフの乗った豪腕が少女の頭蓋を粉々に破壊していただろう。彼を信じて全身を預けた彼女は見るも無残な姿となり、先ほどの眷属と同じように物言わぬ骸となって地面に倒れ伏しただろう。
だが、そうはならなかった。
真っ直ぐに獣の瞳を見つめるアミュレの瞳からは、宝石のように煌めく大粒の涙が、止まることなく頬を伝っていた。
「大好きですラビさん……私のような許されない過去を背負った人間にも、優しく接してくれて、誰かのために必死になれるあなたが、大好きです。だからもう、これ以上遠くにいかないでください」
心からの懇願に獣の顔がわずかに引きつった。何かを思い出しそうになっているが、それが何だったのか、どうしても思い出せないというように。それは無理もないことだった。トリガーという本能を増幅させる力と、狂化という闘争本能を増倍させる力を同時に受けたことで、もはや彼だったものは心の奥底へと沈み込み、浮上は困難だった。
そう、彼の内にはもう、彼の面影はすっかり消えかけていた。
――だが一粒の宝石が、その絶望の状況に一筋の道を示した。
「ァ……ア…………」
獣は少女の流す涙を視線で追った。
止めどなく流れ落ちる雫は、大半が地面へと落下していくが、そのなかで時折、ほんの数滴だけ地に落ちずに、違う軌道を描くものがあった。それは少女の顔から胸元へと滴り落ち、そこにかけられたひとつの首飾りへとたどり着く。
それは彼女が放つ癒術の光を凝縮したような、穏やかな翠色を讃えて、ただ美しく光っていた。
翡翠。
獣の脳裏にその二文字が浮かび上がった。
それは紛れもなく、彼女たちと別れる前に彼が贈った宝石だった。自分の失態を少しでも詫びるために用意した、露天で買ったごくありふれた宝石。――だがそれは、まだ理性というものがあり、彼が彼だった頃の心の在りようを宿す宝珠。
「ア……ミュ、レ…………?」
記憶は些細なきっかけから、吹き上げるように過去の残影を蘇らせることがある。少女が自分の命を顧みず、どうすれば良いかも皆目わからず、だがそれでも彼を助けたいと願って行動した結果が、ここに結実した。
心の内からすっかり消えかけていた最後の残り火が、少女の胸元には宿っていた。闘争本能で満たされていた男の顔が、次第に先ほどまでの面影を取り戻し、たどたどしく彼女の名前を呼んだ。
戻りかけた彼の面影に、アミュレの顔から緊張の糸がほどけて、一瞬だけ和らいだ表情を見せた。
――だが、それをメフィアスは見逃さなかった。
「……つまらないわ。せっかく最高の悲劇を演出してあげたのに、そんな美談にされちゃ堪ったものじゃない」
そう言ってふたりに向けて手のひらを掲げると、黒槍を発生させてそのまま勢いよく撃ち放った。
アミュレはすでに満身創痍で、凶弓にまるで気づかない。しかし彼は――獣の如き第六感を研ぎ澄ませたラビは、その不意打ちのような一撃に即座に反応すると、
「…………ッ!」
強引に彼女を押し倒した。悪魔の放った槍から少女を守るために。
次いで自らの身も捻る。
「っぐッ!?」
間一髪、攻撃は腹部をかすめて宙を走り、闇夜の彼方へと消えた。
痛みが再び闘争心に火を付け、狂化がそれを煽る。――だが彼が再び獣に戻ることはなかった。
回避した際に避けた服から、ひとつの宝石が彼のもとから地面へと転がった。
それはアミュレが首に下げていたのと全く同じ、美しく優しい光を放つ翡翠の石。
アミュレと同じように、リズレッドにも渡そうと一緒に買っていたもう一粒の宝石が彼の胸からこぼれ落ち、石畳の上を転がる。
それは意思を持つかのように、ひとりの女性のもとへと軌道を描いた。
やがてその翠石は騎士の足元までたどり着くと、その歩みを止める。彼は自身から落ちた翡翠を目で追い、そして導かれるように、今度はその騎士へと視線を移した。そこには、
「――――リズレッド?」
俺は彼女のその表情を見たとき、狂化によって消し去られていた理性が、一斉に息を吹き返すのを感じた。
メフィアスの術中にはまり、恐ろしい頭痛とともに記憶が飛んだところまでは覚えている。その後、とても暖かな少女の声で、同じように優しい煌めきを放つ石が、呼び水のように俺を暗い地の底から引き上げてくれた。そして目の前に佇むリズレッドの顔を見て、ついに俺は強力な一撃で叩きのめされたような衝撃を受けて、現実に呼び戻された。
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