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ノートンが廊下を歩く音が遠ざかっていく。
グラヒエロはひそかに隠し書棚に忍ばせていた、一枚の巻物を鷲掴んで彼のあとを追った。
「ここで長年の苦労を無に帰させるせるわけにはいかん……!」
その巻物は、スクロールと呼ばれる魔法を封印したアイテムだった。
どんなに魔法の才がない者でも、その紐を解けば中に文字として記された術式が発動し、魔法が発動する。
だがスクロールを生成するには熟年の付術師と、自らのスキルを明け渡す魔導師の犠牲が必要だった。
血の滲むような訓練によって習得したスキルを、付術師の力で一枚の巻物に移すのだ。当然、スキルを引き抜かれた魔導師は、二度とその魔法が使えなくなる。だというのにスクロールを発動させて放てる魔法は一回のみという、なんとも非効率極まる代物だ。
だが他人の全てを支配して当然という彼の思想において、このアイテムほど自尊心を満たすものはなかった。
結局、金と権力があれば全てを思うがままにできるのだ。
グラヒエロはこの場面においてなお、自分が支配する側だという認識を持っていた。いや、そうとしか認識できない人生を送ってきたのだ。
道具の不具合によって問題が発生しても、それは使った本人に非があるのではなく、道具が粗悪だったのだ。
だからそのような道具は、とっとと処分するに限る。インクのキレが悪いペンをへし折って捨てるのと同じように、自分は彼に対して同じことができるのだと、レベルが5にも満たないグラヒエロは本気で考えていた。
圧倒的な力量差のある自分とメフィアスが対等に交渉できたのは、牧場へ続く鍵を自分だけが持っていたからなのだ。もしノートンがそれを解き放ち、さらに公衆の面前に晒すようなことになれば、そのたった一つの武器がなくなる。そうなればあの悪魔は、なんの迷いもなく自分を殺すだろう。
許されないことだ。将来は自分の忌み物とするはずだった女が、逆に自分を脅かすなど。
グラヒエロはノートンに追いついた。そして血走った狂人の瞳を輝かせながら、見せつけるようにしてスクロールを高く掲げる。
「ひひひ……っ! 儂のレベルが低いからと油断したなノートン! いま黒焦げにしてやるぞ……!」
口から涎を垂らしながら、スクロールを開くために手をかけた。そのとき、
「《ウインドスライサー》」
そう小さく呟かれた言葉とともに、二人の間にわずかな風が吹いた。
グラヒエロは自分の手がかすかに押されるような感覚を覚えた。次の瞬間、巻物が軽い音を立てて廊下の床に落ちた。
「ほひ……?」
最初、それがなんなのかが咄嗟にはわからなかった。手には確かにスクロールを握る感触があるのに、一方で床にも同じくスクロールが落ちているのだ。
しかしそれが切断された巻物の一部だと気づいたとき、みるみるうちに彼の顔色が青ざめた。
ノートンはそんな相手を蔑むように見つめると、淡々と言い放った。
「あんな至近距離でスクロールを開けると、本気で思っていたのか? しかもあんなに見せつけるようにして?」
「あ……あが……あ……」
「……どうやら、本当に鍛錬というものを行なったことがないようだな。動きだけじゃない、意識そのものに戦闘行為に対する甘さがある。まるで……」
まるで、自分のパートナーのようだ。
ノートンは脳裏で、ロックイーターとの戦い以降姿を消したレオナスのことを思い出した。
彼は魔物とも戦い、それなりの技術も身につけていたが、それでもネイティブとは戦闘に対する心構えに歴然たる差があった。
どんな状況でも彼には詰めの甘さがあった。慢心とも言っていい、自分の命を軽率に扱う短慮さが。
しかしそれは、何度も生き返れるという召喚者であるからこそ、まだ納得できた。
だがグラヒエロは違う。自分と同じネイティブでありながら、まるで自分は死なないのだと心の底から信じている……いや、それ以外の可能性など思いついてすらいないようだった。
全く、どう生きていけばここまで危機感のない生物が出来上がるのか。
過去に自分の上に立っていた男の正体にもはやいかなる感情もわかなくなっていたノートンは、再び手のひらをかざした。グラヒエロが「あひっ!?」と情けない声を上げた。
「念のため言っておくが、僕は今でも選民派だ。ただしそれは、優れた教育を幼少の頃から受けたものが上に立つべきだという意味での、だ。お前はレベルの概念などもはや時代遅れだと笑ったな。これからは知恵の時代だと。確かにそれは、賢人の子孫として正しい判断だろう。だがいまのお前の醜態はなんだ? こうなることが、少しも予想できなかったのか? それとも僕が、あんな愚鈍な動きでスクロールを発動させようとする相手に、全く反応できずにやられる程度の男だとでも?」
「う……わ……儂は……」
「うん?」
「儂は……グラヒエロ・アルカスじゃぞ……こんなことをして、た、ただで済むと……」
「……もう良い。お前はここで大人しくしていろ。せめてもの情けだ、ここで起きたことも、お前が企てていた計画も、僕からフランキスカへは伝えない。まあ、そんなことをしなくても、奴ならもうとっくに察しをつけているだろうがな」
「ぐ……っ!」
「抵抗する気か? それならば好都合だ。今度はスクロールではなく、その身で僕の魔法を受けることになるがな」
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