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 グラヒエロは鬱血してもはやドス黒くなった顔面で、眼球を押し出さんばかりに目を剥いて、ノートンを睨みつけた。

 しかし決して襲いかかってはこなかった。一歩すら前に足を踏み出さず、その場で石化したように固まって、ただ、ふうふうと唸るだけだった。

 他人を支配できて当然だと思っていた男が、為す術もなく意識を保ったまま動きを封じられる。グラヒエロにとってはある意味、死ぬよりも屈辱的な仕打ちだった。

 ノートンが再び足を玄関へと向けて後ろを向けたとき、その憎悪が一気に吹き出した。


「所持品の分際で主人に逆らうとは何事だ、この不良品がァーーッ!」


 護身のため携帯していたナイフを両手で握り、突進する肉団子のように迫った。


「グズが」


 そして呆気なく迎撃された。

 瞬時に唱えられた風魔法のかまいたちが、彼の右足首を切断したのだ。


「あギャぁああーー!?」


 人生初めて味合う本物のダメージの感覚に、バランスを崩したグラヒエロが金切り声を上げながら、頭から盛大に床へ落ちた。


「この屋敷にもポーションくらはあるだろう。それで命を繋ぐといい。もっとも、完全に切断された足はもう元には戻らんがな」


 そう言ってノートンは、今度こそ屋敷をあとにした。もう振りからず、ただまっすぐに行くべき先を見据えている。

 向けられた視線は南。

 巨蟲が黒煙にまみれて脅威を振るう、戦火の中心、城塞都市中央区だった。


 そして来客が去り、再び一人きりとなった屋敷のなかを、グラヒエロは懸命に張って居間まで進むと、棚にしまっていたポーションをなんとか取り上げると、そのまま自分の足にぶち撒けた。

 ノートンの言う通り足の先が再び生えてくるようなことはなかったが、出血が止まり、赤黒いグロテスクな内面を露出していた切断面を、周りの皮膚が包み込むようにして覆った。

 ばくばくと危険信号を発していた心臓がようやく落ち着いたころ、残ったのは煮えたぎるような悪意だった。


「ゆるさん……ゆるさんぞノートンクソアイテムがぁあ……!」


 手の骨が砕けんばかりに握り込み、歯が割れんばかりに噛み締め、眼球を破裂せんばかりに血走らせた。

 ノートンが最後に施したのは、幼い日から、曲がりなりにも自分に親身にしてくれていた彼への、せめてもの恩義の残り香だった。

 だがグラヒエロにはそれを汲み取るだけの力はなかった。それが彼の最大の不幸だった。



  ◇



「ありがとうございます。ここの急を要する患者はどうやら全員、山を超えたようです」


 城塞都市の中央領で、一人の壮年の女性が頭を下げてそう告げた。


 先ほどまでは息をもつかぬような戦戦とした混乱状態だったが、配備されていた癒術班と、飛び入りで参加した一人の少女によって、ようやくこうした会話ができるまでには落ち着くことができていた。


「あなたのヒールライトがなければ助からない患者もおりました。全員の代表として、心から感謝を申し上げます」

「いえ、そんな、私なんかそんなことを言われるほどの働きは……っ」


 手をぱたぱたと振りながら慌てる少女――アミュレに、壮年の女性がにこりを笑った。


「ふふ、あなたはきっと神様から遣わされた天使ね。その年でヒールライトを習得しているなんて、将来は神官様かしら」


 歩んできた人生の苦労が伺える深い皺を引き上げてそう告げる女性に、アミュレはずきりと心が痛んだ。

 天使だなんて言われるような人間では、絶対にない。ましてやこのヒールライトを褒められて胸を張るような資格など、あっていいはずもない。

 だってこれは、大切な友人から私が奪ったものだから。


 だがそれと同時に、彼女の旅の目的がまた一つ果たせたことに、ほっとした安堵感も覚えていた。

 この女性はここ中央領において、癒術班の全てを任されているリーダーだ。そんな相手からこのスキルが認められることは、亡き友人が褒めらているようで嬉しかった。


 ――だが、まだ終わったわけではなかった。


 いや、むしろいまからは真の戦いなのだ。外ではリズレッドと魔王軍が激しい戦いを繰り広げている。窓からは、先日見たロックイーターすら伺うことができた。いかに歴戦の騎士であるリズレッドといえど、一つ間違えば死んでしまうような相手だ。それにフランキスカやエレファンティネの姿も見えないことから、一緒に戦っているのだろう。むろん、ひどい傷を負っているのは簡単に想像できた。


 ――ならば、僧侶である自分がその場にいかずにどうするのか。たとえ紛い物であろうと、振るえる力は全て振るう。


「……ありがとうございます。じゃあ私、あっちのほうに加勢してきますね! 私の癒術で、みんなを癒さなくちゃいけませんからっ」


 アミュレは明るく笑って言い放った。まるで友達とショッピングの約束があるから、急いで行かなくちゃとでも告げるような顔だった。

 壮年の女性は途端に顔を強張らせて、制止の声をかけた。

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