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 円形の空白となったそこを舞台にし、俺は勢いづきすぎない程度に速度を上げて、壁から溢れ出る蜘蛛たちを叩いて回った。さっきまでは足の踏み場もなかった監獄も、いまは限定的だが走れるスペースが生まれている。《疾風迅雷》で上乗せされた機動力を活かして敵の蔓延を防ぐには、いまが絶好の機会だった。


『ギキィッ!?』


 子蜘蛛たちが叫び声を上げ、湧き出した瞬間に俺の杖で潰れていく。感覚としては昔、ゲームセンターでプレイしたもぐら叩きに似ていた。もっとも叩いた瞬間はグロテスクで感触も悪く、とても爽快感の感じられるものではないが。


 だが、とにかく相手の数を減らせるときに減らすことが大事だった。攻撃の手が薄くなれば、それだけこちらの勝率は上がる。とにかくいまは、みんなの――ステータスではなく、純然たる――精神力と、そしてMPを温存させるのが第一だ。それにもしかしたら、どこかのタイミングでこの監獄から脱出する、絶好の機会も巡ってくるかもしれないしな。


 だが俺の目論見は、呆気なく空を切ることになった。突然、子蜘蛛たちの行進が止まったのだ。残存兵力が底をついたというわけではない。目視できる範囲にいる敵も、まるで一時停止でもしたかのように足を止めていた。まるで何かを捧げ待つように。大いなる者を迎え入れるように。


 悪寒が走った。


 俺はそこで、ついに真に敵対すべき相手が現れたのだと悟る。すぐに姿を見せないのは《疾風迅雷》の効果が切れるのを待っているからだろうか。……そこまでの知恵が回る敵など、この監獄には一匹しかいない。


 さっきまで通奏低音のように鳴り響いていた八脚から繰り出される床を掻き立てる音がなくなり、部屋が不気味に静まり返った。片手を上げて、みんなに合図を送る。ミーティングしていた通りの作戦指示を告げるジェスチャーだ。意味は――『各自、最大限に警戒しろ』。


 ほどなくして、そいつは巨躯を優に想像させる物音を立てながら、監獄の奥にある分厚い扉をあけ放ち、のそのそと姿を露わにした。

 いままでの払えば落ちる敵とは違う、三メートルはあろうかという長身は、七割以上が下半身の蜘蛛の形態で構成されている。


「アラクネ――ッ」


 メフィアスと邂逅したときに隣にいた半人半蜘蛛の成体が、ついに姿を見せたのだ。


 黒くゴワついた体毛と膨らんだ体、そしてそれに反比例するように機敏に動く八つの脚。子蜘蛛とは違う、太く頑丈そうな脚だ。先端は牙のようにするどく尖り、俺たちを威圧する。そしてそんな下半身とは打って変わり、上半身は華奢な女性の姿そのものだ。見方によっては本当にただの丸裸の人が、下半身を蜘蛛に飲み込まれているだけにも見える。だが扉を開け放って放たれた眼光が、そんな思いを一瞬で打ちのめした。


『よくも……私の子供たちを……』


 血が眼球を染め上げたような真っ赤な瞳だった。呪詛でも唱えるように放たれた言葉は、実際その通りの恨みをもって俺たち五人全員に降り注ぐ。子を殺された親の恨みというやつだ。


「こっちだって散々殺されたんだ。借りを返しただけさ」


 必死に威圧されまいと軽口を返すが、彼女はそんなことはどうでも良いのだ、と言うように、だらりと上半身を垂らすと、床に落ちて残骸と化した我が子を愛おしげに持ち上げた。そして包容するように胸まで持ってくると顔を埋め――次の瞬間、


『勿体ない。せっかくお腹を痛めて、栄養を注いで産んでやったのに。勿体ない』


 その光景に、ついに俺たち全員が顔をしかめた。

 アラクネは物言わぬ我が子を――我が子だったものを、一心に貪っていた。

 ぶちぶちと筋を噛みちぎる音と、じゅるじゅると体液をすする音が監獄のなかに響き、やがて綺麗さっぱりなにもなくなった己の手の内を見つめたあと、蟲の母はにたりと嗤った。


『大切な子供たち……ああ、なんて美味なのかしら……!』


 そこで、俺は自分がとんだ勘違いをしていたのだとようやく気づいた。

 上半身が人間という容姿をしているもので、すっかりそう思い込んでいたのだ。こいつの愛情が、人間が我が子に向ける愛と同じだと。……だがそれは間違いだった。こいつにとって産むという行為は、自立する備蓄食料を作り出す行いに過ぎない。いや、きっと自分自身ですらそう認識しているだろう。子のなかから順調に力をつけ、自分を超える者が生まれたのであれば、きっとこいつは己の身をそいつに捧げる。そこにあるのはただ『アラクネ』という種を存続させるという、生物としての本能だ。


「化物かよ……」


 さしものヴィスも、戦慄する口調で一歩後ろへ退いた。

 エイルは懸命に詠唱を続けてくれているが、表情からはありありと分かるほど恐怖に引きつらせている。

 そんななか鏡花と弔花の姉妹だけは、一歩も退かずに退治した。体だけではない。心もまるで立ち向かうかの如く、むしろ槍のように尖ったなにかをアラクネに向けるのを感じた。

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