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 ◇



 目が覚めたとき、ポッドの裏蓋が目に入った。荒い息とともに意識が現実へと帰った俺は、次いで自分の服が汗で濡れているのを感じた。まるで走り込みをしたあとのような疲労だった。ほどなくしてログアウトを検出したポッドが自動で開き、冷たい外気が吹き込んだ。


 熱く火照った体に冷たい風があたり、そのまま沈静するまで少しだけ天井を見つめた。それから袖で額の汗をぬぐい、ゆっくりと体を動かした。ほぼ一日ログインしていたため背中が固まり、痛みが走ったが、そんなことはどうでも良かった。俺は――ラビ・ホワイトはどうなったんだ。識閾が上がるとともに、焦燥も大きくなった。


 ラビおれは死んだ。その事実と、これから起こるであろう予測不能な事態に、じっとしてることなどできなかった。追い立てられるようにポッドから立ち上がり、カウンターまで戻る。途中何度も足がもたれた。実際のプレイ時間以上に、なぜか体が重かった。


 なんとか明るいロビーまで戻った俺に対して、受付嬢は笑いながら『おつかれさまでした』と返してくれた。それに会釈しつつポケットからボードを取り出すと、キャッシュ画面を表示させてお姉さんに見せた。再ログインの手続きを行うためだ。だが向かいに立つ彼女は、少しだけ気遣うように俺を見やったあと、


「申し訳ございませんがお客様は、随分と疲れていらっしゃるようです。少しだけ休憩なされてはどうでしょうか?」


 そう助言してきた。

 改めて俺は自分が極度の疲労状態にあることを感覚した。危機意識がマヒさせていた疲れが、彼女の言葉で再認識されたのだ。いきなり津波のように襲ってきた目眩に、カウンターに手をついて堪えた。

 そういえばここに来るまでに、膝が笑って何度も躓きそうになった。……だがそれでも、俺はすぐにあちらの世界に戻らなくてはいけなかった。リズレッドがいまどんな気持ちでいるのかを想像して、胸が締め付けられるようだった。約束したのに、大丈夫だと言い切ったのに、何故いま現実の世界で、ギルドのカウンターで立ち往生しているのか、本気でわからなかった。


「……ありがとうございます。でも、どうしても行かなくちゃいけないんです。レッドブルとLFXください。そのあと、またログインします」


 お姉さんはひとつ溜め息をつくと、諦めたように注文を受けてくれた。

 カウンター横に設置されたクーラーから三本のレッドブルと、銀の小袋で包装されたLFXが取り出される。LFXは長時間ALAにログインするプレイヤーに必須のアイテムとして、サービス開始半年後に提携企業が売り出したサプリだ。手っ取り早く必要な栄養素を取れるうえに、量も少ないのでプレイ中にこともなく人気が高い。


 それを受け取るときに、苦笑しながらお姉さんが忠告した。


「時間があるときに、ちゃんと食べないと駄目よ。私もALAプレイヤーで、仕事以外のときはよく潜ってるわ。だから気持ちはわかるけど、あまりのめり込みすぎないようにね」


 受付の人からそんなことを言われるとは思わなかった。よっぽど俺がひどい顔をしているのだろうか。

 ……いや、ひどい顔くらいしていないと、割りが合わない。向こうの世界で、もっと辛い顔をしているだろう彼女が容易に想像できるのだから。こんなに自分を心配してくれていると、疑念を抱かずに思える相手は初めてだった。早くログインして、元気な姿を見せたかった。


 体調を気遣ってくれたお姉さんに振り絞った笑顔で応えながら商品を受け取ると、缶のプルタブを開けて一気に飲み干し、次いで銀色のパックを破って錠剤を口に放り込んだ。これだけで600キロカロリーを摂ることができ、半日くらいなら持たせることができる。一日栄養を取っていなかった胃が、炭酸の放散感を伝えてきた。


 そのままボードで決済を済ませると、3000円のクレジットがマイナスされ、受付横に設置されたディスプレイのなかで、ログインルームのポッドのひとつが白色から、予約中を示す青色へと変光した。


 いまだふらつく足取りで、俺はそこに示された『E-108』のポッドへと向かった。ボードにインストールしたALAのアプリを起動させ、ユーザーコードをポッドの光学スキャナにかざすと、空気ポンプが音を立てて圧力を伝え、異世界への扉を開けた。


「……待ってろよ、リズレッド」


 そう呟き、何事もなくリムルガンドで目を覚ますのを願いながら、俺は再びこちらの世界から離れた。



  ◇



 あ……ぐ……ガァ……っ


 暗い空間の中で、誰のともつかない呻きが響いた。

 反響する音から、ここがそれほど大きくない室内だというのはわかった。だがそれだけだった。一体ここがどこにあるのか、どういった構造であるのかは全くわからず、彼らは悲鳴を上げ続けていた。


(なんだ……ここは……?)


 ログインして目を開いたさきで待っていたものは、岩と砂が広がるリムルガンド荒野でも、堅牢な石壁で四方を囲った城塞都市ウィスフェンドでもなかった。

 真っ暗な空間が視界を支配し、自分が目蓋を開いているのか閉じているのかさえ、すぐには判断できなかった。

 辺りを確かめようと恐る恐る手を伸ばすが、それはどこに触れることはなく、冷たい空気を撫でるだけに終わった。周りからは相変わらず何者かの呻き声が聞こえており、まるで無明の地獄にでも突き落とされてような気分だった。

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