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「君は、何も悪くない」


 動転しかける俺に、リズレッドが声音に最大限の気を遣ったように応えた。しかしすでにあの黄金色の、輝く月光のように美しかった髪にすら、俺から伝わった血が付着していた。いまや彼女の全身が、まみれる必要のない血に犯されていた。白陶のような肌も、細い指も、すべてがグロテスクな赤に侵食されており、そしてそれは紛れもなく、俺を静止するために組みついた際に付着したものだった。


 そこまで思考を進めて、やっと事態を把握した。恐るべき恐怖だった。

 自分のせいで彼女が犯されたのだという理解が追いつき、ついに俺は吐いた。


「う……ぁ……っ」


 突然与えられた圧倒的な力に気づけば飲み込まれていたことに、ひるがえって考え、ようやく自覚した。自分がそんなものになるはずがないと、心のどこかで高を括っていた。だがそれが最も、欲に対して無防備なことだったのだ。深い後悔がきて、体から毒を吐き出すように、大量の嘔吐物を荒野へぶちまけた。


「ごめん、ごめんリズレッド」


 繰り返しそう告げる俺に、リズレッドは応えた。


「謝るのは私のほうだ。君は平和な世界から来訪した、無垢な青年だった。だというのに私はこの一年で、君に力をつけさせすぎてしまった。得る必要のない過度な力を短期間で身につけさせてしまった」

「違う……力に溺れたのは……俺の意思が弱いからだ……」


 顔を伏せながらなんとか言葉を返す。だが彼女は、少しだけ間を空けて、とても優しい声で言った。


「……違う。私が言いたいのは、そういうことじゃないんだ」


 彼女はそのまま俺の容態が落ち着くのを待ってくれた。そしてようやく胃の痙攣が治ると、リズレッドは俺の背中にそっと手を回すと、包むような声音で言った。


「君は、得た力を誰かのために使おうとしてくれた。今日はアミュレやウィスフェンドの兵士たちに対して。そして、昨日は侮辱された私を守るためにだ。なにかを貰った分、それを返そうと必死になってくれただけなんだ。私は今日、君と別れてひとりで考え、ようやくそれがわかったんだ。……昨日は怒鳴ったりしてすまなかった。君はただ、とても優しい行いをしてくれただけなのに、私は……」


 抱きついたリズレッドの声が、次第に後悔の色を強めた。しかしそれが逆に、自身の浅はかさを自覚することに繋がり、ただ悲しくなった。


「……だけど俺は、それを最悪の形で……」

「自分を棚に上げるようでむず痒いが、失敗は誰にでもある。その大小に関わらずだ。……それに、君のおかげでアミュレたちは死ななかった。そして私も、まだ生きてる……いまはまだ、な」

「……いま?」


 その言葉に、不安がよぎった。なにか恐ろしいことが起きるような気がしたのだ。

 疑問を述べる俺に対して、リズレッドは体を離すと、まっすぐに目と目を合わせて、十分に時間をかけたあと、言葉を発した。優しい顔の上に、薄く悲しさが乗ったような表情だった。


「……ラビ、よく聞いてくれ。君は次に死んだら、無事に生き返れる保証はない。君が祈りを捧げたクリスタルが破壊されたのは知っているだろう。それは全て、魔王の策によるものだ。召喚者が祈りを捧げたクリスタルを破壊されたとき、無事に復活できるのか誰にもわからない。なにせ事例がないのだからな。……だが魔王が自らロックイーターを生み出し、対クリスタル破壊生物としての役割を与えた以上、楽観的な予測はできない。おそらく、最悪なことが起こるだろう。……私は君がどこかに行ってしまうのが嫌だ。魔王の手によって、永遠に消え去ってしまう可能性すらあるのに、これ以上君を死地に赴かせる訳にはいかない。そんなことは、心が耐えられない」


 彼女がなにを言わんとしているかがわかり、必死にかぶりを振った。


「リズレッド……駄目だ、それ以上は言うな」

「……ふふ、さすがに一年も一緒にいると、なんでもお見通しか」


 苦笑しながらはにかむ彼女。だがそれでも、もう覚悟は決まっているのだという風で、思わず耳を塞ぎたくなった。だがまっすぐに見つめる彼女の瞳が、それを許さなかった。

 そしてリズレッドは、ついにその言葉を述べた。


「ラビ、一年間ありがとう。私と君は、いまここで別れる。私が囮になっている間に、君は全力で逃げるんだ。私から継承した疾風迅雷があれば、なんとかここから逃れることができるだろう。……いや、その時間くらいは、稼いでみせる」

「なにを言ってるんだ! 俺は死なない! たとえもう会えなくなったとしても、向こうの世界で生き続ける。だけど君は死ねば、もうどこにもいなくなる。犠牲になるなら俺の方が……!」


 叫ぶ俺に対して、彼女は手で静止をかけて、ゆっくりと告げた。


「たしかに君の言うことも一理ある。だが、そんなことは関係ないんだ。その……」


 少しだけ恥ずかしがるように目線を下げたあと、リズレッドは再び言葉を紡いだ。


「私が……私が愛したのは、ラビ・ホワイトなんだから」


 そう言う彼女は、この一年の間で見たことがないほど綺麗だった。


「向こうの世界の君がいくら無事でいようと、この世界の君が死んでしまったら、私にとってそれは、ラビを一生失うのと変わりないんだ」

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