大きな木の下で

「ねぇ、トオル。お母さん達となに話してたの?」



車イスに乗っているハナが、僕の方を振り返りながら聞いてきた。


「ヒミツー」


「えー?なにそれー」


笑うハナ。


「気になる?じゃ、教えてあげよう。ハナのおもしろい話」


「え?私のおもしろい話ってなにっ?」


ハナが慌てて振り返る。


僕は笑いながら車イスを押して歩く。


ハナは教えろと騒ぎながら、僕を見る。


そんななんてことのないささやかな時間も、僕にとっては幸せだった。


『あの大きな木が見たいーーー』


前からのハナの要望で、僕らはその場所へと向かっていた。



〝あの大きな木〟ーーーーー。



それは、僕らが恋人同士になってから、初めてのデートで訪れた場所だった。


賑わう街並みから少し離れた所にある、小さな原っぱの中の大きな1本のポプラの木。


その木陰に寄り添って座り、いろいろなことを語り合った、想い出の場所。


初めてキスをした、想い出の場所。


僕らだけの特別な場所ーーー。


あの日と同じように、木漏れ日がキラキラ光ってとてもキレイだった。



「ハナ、もう少しで僕らの誕生日だね」


ふたりで大きな幹にもたれかかりながら、のんびりと会話をする僕達。


「誕生日かぁ。っていうことは……私とトオルが出会ってからもう1年経つってことだね」


「そっか……。そうだよな。僕とハナが出会ったのは、僕らの誕生日だったもんな」


「ちょっと。まだ1年前のことなのに、なんか忘れかけてない?」


ハナがちょっとふざけた横目で僕の顔を覗き込んできた。


「忘れるわけないじゃん。あの時はホントにビックリしたよ。だって、いきなり自転車で突っ込んでくるんだもん。しかも猛スピードで」


僕が笑いながら言うと、ハナもケラケラと笑った。


「でもさ、私達ってホントにすごい偶然だったよね。同じ誕生日で、その誕生日の日に同じように恋人にフラれて。しかも、あの時間、あのタイミングでバッタリ出会っちゃうなんて」


「そうだな」


「もしかして……。私達の小指と小指、見えない赤い糸で繋がってたりして!」


ハナがきゃっきゃっと笑いながら、僕の肩にもたれかかってきた。


「……かもな」


僕も笑いながら言った。


でも、本当にそうかもしれない……そう思っていた。


赤い糸じゃないにしろ、なにがそれに近いものが僕らにはあったのかもしれない。


もしくは、奇跡のようなものだったのかもしれない。


こんなに好きになれる人なんて、そう簡単に巡り会えるもんじゃないと思う。


この不思議なほどの安らぎと愛しい空間。


この広い宇宙の中で。


星の数ほどいる人々の中で。


僕はハナと巡り会えたんだ。


その奇跡のような出来事に、僕は心から感謝していた。



「……トオル。私、なんだか病気も治りそうな気がする。トオルとこうして一緒にいるとーーー。だって私達、なんだかすごいじゃない?」


ハナが笑った。


「うん。すごい。確かにすごい」


僕も笑いながら、大きくうなずいた。


「だから、なんかふたりでいると。いろんなものを乗り越えていける気がしてならないの。体の中の悪いものがどんどん消えていくカンジがするの。なんか、浄化されてくっていうか……。それで、元気になって。海辺がいいな」


「海もいいし。山もいいし。この原っぱもいい。どこでもいいな」


「そうだね。走れるなら、どこでもいいね」


僕は、ハナの頭をそっとなでた。


痩せたハナの小さな身体。


それでも、あったかいハナのぬくもりが僕の体に伝わってくる。


「……あ、そうだ。ハナのお母さんが、来月の僕らの誕生日にご馳走作ってお祝いしてくれるって言ってたよ」


僕がそう言うと、ハナが嬉しそうにほほ笑んだ。


「そんな話してたんだ。トオルが、私のお母さんやお父さんとそんな風に会話するのって、なんかすごく嬉しい。誕生パーティー楽しみ!お母さんにりんごタルト作ってもらお。すっごく美味しいの。トオルも顔に似合わずけっこう甘党だもんね。お母さんのタルトは絶品だよ。期待してて」


「それは楽しみだ。でも、僕の顔って甘いもの嫌いそうな顔?」


僕の言葉に、ハナがケラケラと笑った。


ハナの明るい笑い声が、僕のすぐ横から聴こえてくる。


それだけで、僕はとても嬉しい気持ちになる。


僕は、空を見上げた。


青い空と太陽と新緑の木々が、ひどく美しい。


「ーーーこの風景を絵に描きたい。そう思ったでしょ」


ハナがクスッと笑いながら僕を見た。


そのとおりだった。


僕は今、目の前に広がるこの風景が、頭の中の真っ白なキャンバスに鮮やかに浮かび上がっていくところを想像していた。


「よくわかったな」


「わかるよ。私ね、初めてトオルの絵を見た時思ったの。トオルは只者じゃない。すごい才能があるって」


「只者って。才能なんてないよー」


僕が笑うと、ハナが真面目な顔で言った。


「そうなのっ。あるのっ。絵って、誰でも描けるわけじゃないだよ。私は苦手だもん。描きたくても思うように描けないし。だから、すごいことなんだよ」


「ありがとう。なんか照れるな」


笑いながらポリポリ。


「絵、描くの好き?楽しい?」


「好き、だなぁ……。で、楽しい。かなり」


うん。


絵を描くこと、これはホントに大好きだ。


「じゃあ、これからもずっと描き続けてね。あたしもトオル描く絵が大好きだから」


真っ直ぐで優しいハナの瞳。


僕は静かに大きくうなずいた。



ハナにはとても感謝している。


絵を描くことが好きだった僕。


でも、絵から遠ざかっていた僕。


そんな僕が再びキャンバスに向かえるようになったのは、まぎれもなくハナのおかげだから。


僕の中で眠りかけていた『好き』とか『楽しい』とか、そんな夢中になれる気持ちの引き出しを、僕の心の奥から引っ張り出してくれたのだ。


それってホントにすごいことだ。


……僕は、ハナになにかしてあげれているのか?


ふと、そんなことを考えていた時。


ハナが静かに言った。


「そういえば……。私のピアノ、トオルに聴いてもらえないまま弾けなくなっちゃったね」


少し笑ったハナの瞳は、寂しそうに揺れていた。


僕は、そんなハナの手を握った。


「大丈夫だよ。今日、ハナの家にあったピアノを見て、ハナがピアノを弾いている姿を想像できたから。メロディーも聴こえてきた」


「どんな曲?」


ハナがイタズラっぽく笑いながら僕の顔を覗き込む。


「……ねこふんじゃった」


僕の答えに、ハナがどっと笑った。


「絶対言うと思った。だってトオルそれしか知らなそうだもん」


「失礼だなー。他にも知ってるぞ。えっと……迷子の子猫ちゃんとか、咲いた咲いたとか……」


僕が必死に頭をひねりながら言うと、ハナが更に笑った。


「トオル、それって全部童謡だよー。しかも曲名違ってるし」


「え?」


「迷子の子猫ちゃんは『犬のおまわりさん』で、咲いた咲いたは『チューリップ』だよー」


「あ……そっか」


思わずふたりで大笑いしてしまった。


「でもねー。私、そういう可愛い曲大好きだよ。仕事で弾いてた時もさ、小さい子達のクラスの時はそういう曲弾くの。みんな楽しそうに、私のピアノに合わせて歌うんだよ。なんか、それがすごく嬉しくてね」


ハナが優しくほほ笑んだ。


ハナに音楽を教えてもらっていた子ども達は、さぞ楽しいひと時を過ごしていたに違いない。


僕は音楽は聴く専門でからっきしだったけど、自ら奏てて楽しむこともできる。


音を楽しむ。


まさにハナは子ども達に音楽の楽しさを伝える素晴らしい仕事をしていたんだ。



「ねぇ、トオル。この木に名前彫らない?私とトオルの」


「え?」


目を輝かせながら、突然の提案をするハナ。


やっぱりハナの行動は予想がつかない。


驚きながら僕は訊き返した。


「僕らの名前を?この木に?」


「うんっ。実はね、ずっと前から考えてたの。それで……じゃん!切れ味抜群、よく切れる彫刻刀ー。3本入りー」


ハナが、持ってきたバッグの中から嬉しそうに手のひらサイズの彫刻刀セットを取り出した。


「ドラえもん風に出してみました」


「だろうな、と思った。でも、ちょっと甘いな」


「甘いー?じゃ、トオルやって見せてよ」


ハナがちょっとむすっとして、じと目で僕にバッグと彫刻刀を差し出す。


「ドラえもん風ならこう。『想い出の木に名前を掘るなら、これ!自由自在にらくらく彫れちゃう3本入りロマンティック彫刻刀3本入りー!』てってれー♪』」


「おおー!トオルうまい!」


ハナが、笑いながら歓喜の声を上げた。


「ポケットからひみつ道具を出す時に欠かせない、あのてってれー♪の効果音を入れると、ドラえもん風味が更に増すというわけだ」


「私に足りなかったのはそれだ!」


笑い転げるハナ。


「ーーーで、なんで木に名前を彫ろうと思ったの?」


ひとしきり笑ってようやく落ち着いてきたハナに、僕は尋ねた。


笑い過ぎて涙目になっている目をこすりながら、ハナは大きく深呼吸して、そっと木に触れた。


「ここは、私とトオル想い出の場所だから。私の大好きな場所だから……。記念に彫りたいなぁ……って。私達がいた証ーーー?みたいな?だから、ちょっとだけ名前を刻ませたもらいたい。私がトオルの名前を彫る。トオルは私の名前を彫るの。なんかステキじゃない?」


澄んだ瞳の奥をキラキラさせながら、僕の手を取るハナ。


そんなハナに、僕は思わず小さくほほ笑んだ。


「いいね。そうさせてもらおうか」


「うんっ!」


ハナが嬉しそうに笑った。



僕らは彫刻刀を手に取り、うっすらとお互いの名前を彫り、その木に刻んだ。


「かったーい、けっこう力いるんだね。汗かきそう」


楽しそうなハナ。


細い腕で一生懸命僕の名前を刻むハナ。


その横に、僕がハナの名前を刻んだ。


ちょっとイビツで、でもなんとか読み取れる『ハナ』と『トオル』。


座ったままのハナの目線で彫った名前は、だいぶ低い位置。


この大きなポプラの木は、僕らだけの特別な木になった。


僕は、この木を見上げながら。


もうすぐやってくるふたりの誕生日のことを考えてたいた。


実は、ハナが病気になってから、ずっとそうしようと僕の中で決めていたことがある。


僕のハナへのこの想いの集大成。


そう。


8月7日の誕生日に、ハナにプロポーズする。


偶然なのか、名付けの時に合わせたのか。


8月7日は、8と7でハナの日だ。


ハナの日で、僕らの誕生日で、ふたりが出会った特別な日。


プロポーズするならこの日しかないだろう。


僕はこの日のために、密かに絵を描き続けてきた。


それが、昨日やっと昨日完成を迎えた。


ハナの絵だ。


心を込めて描いたその絵と、たくさんの向日葵の花束と一緒に。


僕の想いを届けるんだ。


それが、僕からハナへの27歳の誕生日プレゼントだ。



なにも知らないでほほ笑んでいるハナ。


ハナはどんな風に喜んでくれるだろう。


きっと、僕の大好きなあの向日葵みたいな笑顔で、くしゃくしゃになって喜んでくれるに違いない。


僕は、そう思っていたんだ。



そう、思っていたんだーーーーーー。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る