第83話 普通のあれこれ

 誰にでも書ける物語ではなく、自分にしか書けない物語を書きたい。

 物書きを志す諸兄であれば、誰もがそう胸に秘めていることでしょう。


 無論、私もそうです。


 では、私にしか書けない物語とは何か。

 それはつまるところ、私という個性の発露。他の誰でもない、私という唯一無二の存在から抽出された感性で書き上げるもの。


 故に、私は「普通」であってはならない。

 普通とは、言い換えれば私である必要がないもの、他の誰かでも務まるもの。

 私の代わりなど生まれてほしくない。代用の介入を許さぬほどの、もっと個性的な感性を身に着けたい。常々、そう思っております。 


 そんな私ですから、「普通」という言葉には非常に敏感に反応します。

 なので今回は「普通」についてのお話。


 私の知人に、普通を至上とする人間がいます。

 ですが、その思想とは裏腹に、私はその知人はとても個性的な人物だと思います。


 根拠はいろいろあるのですが、その知人を象徴する最もエピソード。

 一風変わったレンタルビデオの借り方を挙げてみましょう。


 仮に、全12巻のドラマのDVDがあるとして。

 まず1巻を借りて、次に6巻を借りて、その次に12巻を借りる。

 そうして内容が面白かったら、今度は1巻から順番に借りていく、というもの。


 みなさんは、どう思いますか。

 私の主観では、かなり変わっていると思います。


 予め断っておきますが、私はその遣り方を否定したいわけではありません。馬鹿にするつもりもありません。

 楽しみ方は人それぞれ。これという正解なんてありはしないのですから、本人にとってそれが一番楽しい遣り方なら、それでいいと思います。


 なので、私は思ったことをそのまま知人に伝えました。

 とても個性的な鑑賞の仕方だね、と。


 ところが、その知人は真顔で「これが普通だ」と言いました。


 ――いや、ちょっと待ってくれ。

 私は個性に関しては寛容だが、普通という言葉には厳しいぞ。


 レンタルビデオの普通の借り方とは何か。

 それは、巻数の順に借りていくことではないのか。だって、本だろうとDVDだろうと、出版物というのは原則として1巻から順に発売されるんだから、その通りに手に取ることを推奨されていると捉えるべきです。


 もし、知人の実践している借り方が普通――最大公約数的なものだとすれば、1巻の次に12巻が発売されてもいいわけですし、TV放送も1話の次に24話が放送されても問題ない。いや、そもそも1回目に1話を放送する必要性だってない。


 私とて好きなアニメの特定の回だけ何度も繰り返し見ることはありますが、それはあくまで全編通して視聴して末の行為。初視聴の作品を中途半端なところから見始めても、正しく楽しめるとは思えません。


 もちろん、昔は現代のようにオンデマンド機能などありませんでしたから、不可抗力で途中から視聴せざるを得ない事態はありました。でも、だからこそ、レンタルが可能になった暁には最初から順番に見たいという気持ちになります。

(例えば、涼宮ハルヒの憂鬱のTVアニメは、時系列をあえてバラバラに放送するという斬新な手法でオンエアされましたが、それが多くの視聴者の混乱を招いたのは間違いないと思います。リアルタイムで鑑賞していた私も首を傾げたので)


 順番を守るというのは、私にとって「普通」のことだと認識しています。

 なので、その順番に捉われない知人の行為は、私が定義するところの「普通」を逸脱したもの――即ち、個性的に映ります。


 ですが、知人は「いや、これが普通だ」と頑なに主張します。

 いやいや、すごい個性的だと思う。そんなレンタルの仕方をしている人間、生まれて初めて出会ったもの。そもそもそれが普通と言うなら、私はともかく、私の友人たちもその借り方をしていなきゃいけないと思うが、そんなことはなかったし。


 繰り返しますが、私に知人を貶める意思はありません。

 ただ、せっかく、オンリーワンな感性をしているのに、それを頑なに「普通」だと言い張ることが解せないだけ。


 きっと、知人は周囲から個性的だと――変わった人と思われたくないという願望があるのでしょう。あるいは、過去にその感性によって謂れのない誹謗中傷を浴びたのかもしれません。出る杭は打たれるのがこの社会ですから。


 人と違うことに苦しむという経験は私にもあります。

 ちょっと話は逸れますが、母に聞いたところ、私は逆子だったようで、帝王切開で生まれたそうです。


 私は自然界であれば、医療が未発達であれば、死していた命。

 それを救い上げてくれた現代医学には感謝してはいますが、同時に、私は自分のことを不自然な生命だと卑下する時期がありました。


 されど、母から「地球は、意味のない命を誕生させない。どんな形であれ、生まれ落ちたということは、相応の役目があると心得なさい」(ほぼ原文。いやマジで。うちの母、こういう言い回しをするんです)とお叱りを受け、私は私の生存を容認するに至りました。


 しかしですよ、母上。元を正せばあなたが「あんた、医学の発達した現代じゃなかったら生まれてこなかったんだからね」とか言ったからですよ?


 知人に何があったかは知りません。聞いても答えてくれません。

 けれど、事実として人間一人一人に個性はある。本当の意味で、普通の人間なんて存在しない。なのに、こんなにも普通に固執するということは、それだけ「普通でなければ悪だ」と思い込んでいるからに他ならない。それは結局、自らが受けてきたであろう偏見や差別と変わらない考え方だと思います。


 多様性の尊重に真っ向から反発する、強靭な「普通」への執着。

 自分の個性を受け入れず、見ないふりをして、それを否定する姿に縋る。

 ……そんな生き方のほうが、苦しいのに。


 私が自作において「己の在り方」を強調しているのは、知人との出会いが影響しているからかもしれませんね。

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