第54話 人生のあれこれ

 ちょっと今回はディープな話。

 創作にはあまり関わりのないことなので、例によって自己責任でお願いします。

 それどころか、大半が愚痴と思想的な事柄なので、はっきり言えば不快になる方もいらっしゃるかもしれません。どうか、ご注意を。











 世の中、とても生きづらい。

 日常を営んでいて、そう思うことが多々あります。


 五体満足に生まれ、それなりの教育を受けさせてもらい、理解のある友人関係を築き、安月給ながらも職に就いて、多くの趣味や娯楽の恩恵を受けられる私は控えめに見ても幸福な存在です。


 そう自覚しながらも、私にとってこの社会はとても生きづらいもの。

 何を贅沢な、と言われるかもしれません。ですが、嘘偽りない本音なのです。


 ――だって、私はなのですから。


 さて、皆さんは自身の命にどれだけの重さを感じているでしょうか。

 かつて、1977年のダッカ日航機ハイジャック事件の折、当時の福田首相が「一人の命は地球よりも重い」という発言をしました。


 その発言の是非は問いませんが、首相の言に反して、私自身は「そっかなぁ。私の命は言うほど重くないよ?」と考えています。


 では、どうして自身の命を軽く見ているのか。

 私にとって私の生存は前提で、その上でどう生きるか、どう生も全うするかというほうが重要だからです。 


 私はただ生きているだけでは幸福を感じない。葉っぱ一枚あればいい。生きているからLUCKYだ、などと口が裂けても言えないのです。


 私が愛好しているSF美少女ゲームのキャラクターの台詞に、こういうものがあります。


「生きているのと、生かされているのではまるで違う。そこに自分の意思があるかどうかが問題なのだ。それが反映できるかが問題なのだ」


 まったくもって同意。

 自分の意思が反映できないのならば、自分の人生に意義を感じない。自分の決めた生き方を実現できない人生など、死んでいるのも同じ。


 私が理想とする在り方を実践できていない現状は、私にとって生の実感が薄い。つまり、死に近い状況なわけです。となれば、命が軽いのは道理でしょう。


 ……ただ生きているだけで幸福だと叫べない私は、きっと贅沢なのでしょうね。


 何もこの考えに賛同してくれ、などとは言いません。

 人生や命の価値などは普遍的な正解などありはしないのですから、否定もあるでしょう。それは重々承知。ただ、私はそういう価値観で生きているよ、ということだけはわかってほしい。もちろん、賛同してくれたら安心しますけどね。


 では、そろそろ話を本題に戻しましょう。

 私の人生観と、社会での生きづらさがどう関係あるのか。


 端的に言うと、社会の中に、私の考えをしてくれる方があまりにも少ないからです(受容という言葉を使いましたが、これは賛同という意味ではありません)。


 私は、私の人生観を周囲に語ります。

 時にデータで、時に例題で、時に文学的表現で。私の持ち得るスキルを総動員して周囲に説明を試みます。


 これはどういうわけかというと、周囲に私の価値を押し付けようというつもりは微塵もなくて、その逆で、私に一般的な価値観を押し付けないでくれよ、とアピールしているわけです。私自身は、他者がどんな価値観を持っていようと、法や倫理に抵触しない限り、それを否定するつもりはありません。


 要するに、「私は贅沢な人間で、ただ生きているだけでは満足できなくて、いかに生きるか、いかに自分らしく在るかを優先するような変わり者だからね? お願いだから、私という存在を一般に当てはめないでくれよ?」ということを公言しているわけですね。


 そうでもしなければ、周囲は私を一般枠で考える。

 変わり者だという自覚がある分、一般的な尺度で測られるのは逆に苦痛なのです。


 私はただ、たまたま肺呼吸ができてしまった魚。

 本来は水の中に生息しているのに、何を間違ってか地上しゃかいに適応してしまっただけの変異種なのです。


 しかし、エラ呼吸の機能が残っていることだけは認めてほしい。

 エラ呼吸じゃ生きていけないから肺呼吸しているけど、本当はエラ呼吸で生きていきたい。そう思うくらいは許してほしい。もう水の中に戻れないんだから不要だろ、なんて言わないでほしいのです。


 けれども、伝わらない。

 どれだけ言を費やしても、一向に伝わらない。


 繰り返しますが、決して賛同してほしいわけではないのです。

 ただ、私は私自身の人生をこう定義しているとだけなのです。


 ところが、こういう話をすると周囲は決まって、

「ちょっと人と違うことを言いたいだけで、本当はこうなんでしょ? 正直に言っちゃいなよ、You」という顔をします。


 理解とか共感とかそれ以前に――そもそも、私がこういう価値観を持って生きている人間であるということを


 いっそ、「お前の言うことは理解できない。この狂人め」と断じてくれればいいのに、それでも周囲はのです。


 そんな無理解に晒される時、私はものすごく絶望したような気持になります。

 そして――「ああ、生きづらいな、この非自己いっぱんじんが支配する社会は」と溜め息交じりに痛感するのです。


 いや、きっかけは些細なことなんですよ?

 先日、会社で同僚と雑談している時に恋愛の話になって、


同僚「白武さん、恋人作らないんですか?」

私「今は創作に打ち込んでいるほうが楽しいし、できるだけ時間を費やしたいので、別に急いで作ろうとかは思ってないですね」

同僚「またまた、そんなぁ。本音は?」

私「…………」


 本音も何も、私は今は創作に打ち込んでいるほうが楽しいって言ったよね!?

 なんで、私の発言を信じてないの!?


 もう、その時点で私のメンタルは低空飛行ですよ。胴体着陸寸前です。

 この同僚は、私の発言のどこに虚偽があると思ったんだ?

 創作が楽しいという部分か? 恋人作ろうと思っていないという部分か?


 別に恋人が欲しくないなんて言ってないじゃん。人並みに欲しいと思います。

 ただ、今は時間があったら小説のほうを優先したいって言っているだけじゃんか。ただでさえブラック企業で、自由な時間なんて少ないんだからさ。


 きっと、同僚の価値観の中で「創作<恋人」というのがあるのでしょう。

 となると、私が恋人がいないから、しかたなく創作しているという風に見えているのか。でなければ、あのセリフにならないよね……。


 まったく誤解も甚だしい。もう五、六年の付き合いだっていうのに。未だに私のことがわからないのか、こいつは。私が一般的でないことは散々語っていることなのに。そもそもにおいて、現状だって私が望んでやっていることじゃないか。なのにどうして――こうもわからず屋なのか。


 話しても伝わらない。

 自分のことを信じてもらえない。

 そんな、本当に些細なことですが、私の精神をかき乱すのには十分で、ここ数日あんまり筆が乗らないのです。こんな低いテンションで執筆したら、内容が悪い方に引きずられそうだし。


 この程度のことで落ち込むメンタルの弱さも、自分でもどうかと思いますがね。

 いやあ、今年は初っ端からインフルに罹るし、本当に幸先悪いなぁ。

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