第33話 年齢設定について

 カクヨムコンの最中でしょ?

 エッセイとか書いている暇あるの?

 一行でも話を進めておかなくていいの? 


 ――よかねぇよ。

 でも、書きたいから書く。それが私のスタンス。


 さて、今回は登場人物の年齢設定の話。

 作品によって主人公の年齢は様々だろうが、おっさん・おばさん、あるいはお爺ちゃん・お婆ちゃんを主人公として用意しているライトノベルは少ないと思われる。


 もともとライトノベルという文化はティーンエイジが読むことが前提となっているので、読者が自身と重ね合わせることができる16~18歳くらいの設定にするのが定番だ。


 それとは別に、人格的な成長が最も描きやすい思春期という年代だから、ということもあるだろう。

 ストーリーというのは登場人物の心的変化を記したもの。つまるところ、一般的なライトノベルで展開される物語は、少年期から青年期へと移行する過程を描いたものに他ならない。そういった意味で、16~18歳という年齢は都合が良かったと思われる。


 まあ、若い頃の私は「女子高生とか好きだからー!(木村先生臭)」という身も蓋もない理由でヒロインの年齢を決めていたので、キャラクターの成長を描くためとか、そんな高尚な考えは微塵もなかったのだが。


 キャラクターの成長について、機動戦士ガンダムで有名な富野由悠季監督は「青年というのは喪失の物語」「少年期に取り返しのつかないことをしてしまった絶望感で、人は青年になる」と説いている。


 この話を聞いた時は、なるほどと思った。


 少年期→青年期→大人というのがある種の正準な成長過程であるならば、現代のライトノベルは苦悩に満ちた青年期を認めず、少年期からいきなり大人に変貌する物語が多い。血を流さず、仲間を失わず、迫りくる障害を(主にチートで)ものともせず、ストレスフリーに物語は展開する。あの御方が近年のヲタクに激昂するのは、こういった価値観から来るものなのだろう。


 私も古い人間なので、富野監督の仰りたいこともわからなくはない。

 とはいえ、時代は変わるもの。私が思うに、ライトノベルというものは芸術の域にまでは到達していない。まだまだエンターテイメントの領域だ。エンタメである以上、どれだけ読者に受けたかどうかが基準となる。どれだけ論理として正しくとも、往々にして悪貨が良貨を駆逐するのが世の中だ。富野監督のような芸術家の論理は当てはまらないのかもしれない。


 しかしながら、物語の書き方として、喪失というのはキャラクターを成長させるエピソードとしては申し分ない。それを踏まえた上で、私はカクヨムの中でどれだけキャラクターの成長を描くことができたであろうか?


 第一弾である「ファウナの庭」では、一人で完結していたミランが、不完全な人間なる過程を描いた。

 作中を通して取り返しのつかない失敗はしていないので、成長とは言い難いのかもしれない。富野監督的にはお説教ものだろう。


 第二弾の「炊き立てご飯」では、語り部である僕が「師匠を殺され、仇を討つために殺人を犯す」という明確な罪を背負っている。

 取り返しのつかなさ度ではなかなかと思われるが、残念ながら師匠は普通に生きていたので最終的には温く感じる。これもお説教ものだろう。


 第三弾である「少女剣聖伝」では……さて、どうなるだろうか。

 ローザリッタは16歳。

 舞台が異世界ということもあって成人扱いではあるものの、外見・内面ともにまだまだ少女。成長の余地はいくらでもあるし、それが物語の中核にもなっている。


 彼女がどのように成長していくのか、今後の展開を楽しみにしていただきたい。


 余談ではあるが、私が無駄に長い執筆歴において書いた最も若い主人公(兼ヒロイン)は14歳である。当時は「JCとか好きだからー!」と叫んでいた。


 キャラクター以上に作者が成長していないことがわかるエピソードである。

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