余禄 エゼキエルのこと
エゼキエル書はケバル川のほとりに捕囚の民と共にいた祭司エゼキエルが、幻を見た、というところから始められている。ケバル川は、バビロンでユーフラテス川の水を引いてきて、運河として用いられていたものと言われており、イスラエルから見れば、シナイ半島の反対側というかなり遠い場所になる。
巨大な帝国に蹂躙され、当時の世界観からすれば地の果てのようなところに連行された彼らは、絶望の中で過ごしていただろう。ところが、そんな環境の中でエゼキエルは、数百年後のヨハネ黙示録にもつながっていく不思議な幻を見たり、エルサレムの神殿を見たり、終わりの日に諸国から集められて国を再建するイスラエルの姿を見たりと、時間や空間を超えて世界の歴史についての重要な預言を残して、預言者の中でも一際特異な存在感を示している。語られたその預言のあまりに特異な雰囲気に圧倒されるようにして、エゼキエル自身の人物像は、聖書の記述の中からは彫像のように情緒的なものを感じさせない。
しかし、大きく用いられただけに、ということなのだろうか、彼自身はかなり厳しい取り扱いを受けている。最も大きかったのは妻の突然の死だっただろう。
エゼキエルの妻の死は捕囚の地、バビロンでの出来事だったという説もあれば、エルサレムにいた時のことだったという説もあり、年代に関してはエゼキエル書の記述だけでは、特定しづらいものがある。ただ、24章の始めには、「この日にバビロンの王がエルサレムに攻め寄せた」と書かれてあるので、どちらかと言うと、やはりこの出来事はまだエルサレムにいた頃のこと、ではないだろうかと想像し、物語では、この設定を用いてみようと考えた。
そのように設定した理由は他にもある。というのは、陥落するより前のエルサレムではエレミヤが活躍しており、二人の接点を描いてみたかったからだ。エゼキエルは悲しむな、と言われ、その通りにふるまって自らがひな型となり、エルサレムの滅亡を預言していく。生身の彼がどれほど苦しんだことだろうか。せめて、その背中をさすりながら、共感し、涙を流した人物がいた、としてみたかった。だとすれば、ふさわしいのは哀しみの預言者エレミヤをおいて他にはない。
四大預言者のうちイザヤとエレミヤはバビロン捕囚までの、南北イスラエル国内での預言が中心であるのに対して、エゼキエルとダニエルは捕囚後にバビロンにて活動している。捕囚前後の二つの時代にそれぞれ活躍した預言者達。どこかで出会っていたかもしれないと思えば、少しロマンティックではないだろうか。
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