余禄 イザヤのこと
大預言書の筆頭に置かれているイザヤ書は、聖書の背骨のような位置づけに思える。聖書全巻の数と同じ66章から成り、救世主の預言に関してはあまりにもリアルに過ぎて、はるか後代の紀元後に書かれたのではないかと言われたほどである。
ウジヤ王からヒゼキヤ王にいたるユダの4代の王の時代を通して預言者として活動したというから、その期間はほぼ100年に迫る長さになる。恐らく、少年時代から活動を開始したのではないかと思われる。
王宮に対しても大きな発言力を持っていたイザヤは、自身が王族の一人だったのではないかとも言われるが、一説では父アモツはアマツヤ王の兄弟だったともされている。イザヤの物語では、この説を用いて、ウジヤ王の従兄弟という設定にした。
当初アザルヤと呼ばれていたウジヤは、信仰的で善政を行っていたが、祭司のみしか許されていない香を焚くという越権行為を行ってしまったがために、呪われてしまう。アザルヤは「主は助ける」、ウジヤは「主は力」という意味がそれぞれあるそうで、神学的にも色々と深い解釈があるようだが、明らかなことは神との関係がおかしくなってしまう前後で呼び名が変わっているということであり、イザヤ書でウジヤ王と記されているのは、善王としてではなく、むしろ悪王としての扱いだということだろう。
イザヤはわずか14歳で即位した少年王を、預言者という立場で支えていたのだろうか。しかし、道を踏み外してしまった王に警告を送るという役割に転じ、さぞかし無念だったことだろう。
彼はそのウジヤ王が死んだ年に、天使たちが恐れおののきながら礼拝している幻を見る。ウジヤ王は在位52年と書かれているので、イザヤが預言者として活動してからもそれなりの年月が経っていたということになる。そこで彼は神の聖さの前に絶望し、滅びる他ない、と覚悟しただろう。
「ああ私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる」
という告白の中に、自らの汚れと共にイスラエルの現状に対する彼の失望感が滲んでいるように思われる。
天使が燃える炭火を持って飛んできた時には、いよいよ焼き殺されるのだ、とでも思ったのではないだろうか。しかし、それに続く
「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたはきよめられた」
という神の言葉に、それこそ目からうろこが落ちるような思いになったに違いない。聖さ故に罪を忌み嫌い、憤りを持って臨まれると考えていた神が、人を赦そうと願っておられるということを知ったイザヤは、一段深く、神の御心に近づき得たのではないだろうか。
預言者としての長い歩みを終えたイザヤは、他の多くの預言者と同じく、その最期についての詳しいことがどこにも書かれていない。殉教説もあるが、今回は荒野に旅をして、そのまま静かに舞台から姿を消す、という設定にしてみた。
ちなみに彼のその、荒野への旅路に伴われた弟子として、マヘルという人物を登場させたが、これはイザヤ書8章に書かれている、彼の息子、マヘル・シャラル・ハシュ・バズのことである。
使命を果たし終えた老預言者が、息子を伴って荒野を旅し、焚き火の前で語り合う。そんな静かなエンディングがあっていいのではないか。敬意を込めて想像してみた次第である。
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