13.ドゥンケの望み

 初めて、外の人間に会った。

 それは、想像よりずっと逞しく、ずっとまばゆい存在だった。



「あ、ぬしさま……」


 父と子が、何かを背負って山道を登って来た。

 父親の方が、わたしの姿を見てギョッとしたような顔をする。


 民がこの祭壇に農作物を捧げに来るとき、わたしはなるべくその場にいないようにしていた。

 ――アサヒに出会う前は。

 このように、民を驚かせるだけで――ヒトと自分は結局のところ相容れない存在なのだと思い知らされるだけだと感じていたからだ。


 だが、今からちょうど1年前、アサヒが現れて――森の集落の子供の命を救った。

 わたしの意思ではなくアサヒが勝手にやったことで、わたしは渋々手伝わざるを得なくなっただけだったのだが……。

 あれ以来、わたしを見ると怯えたような、貼り付いた笑顔を浮かべていた民の表情が、少し変わった。

 少し近くに寄っただけで、一目散に逃げるようなこともあったのだが……徐々に、減っていった。


「父ちゃん、ドゥンケさまだよ。主さまじゃないよ」

「ああ……そう、そうだったね」


 父親は慌てて笑顔を作ると、背中の荷を下ろして祭壇にいくつかの農作物を置いた。


「今年初めて取れたボリジです。ドゥンケ様のお口に合うとよいですが……」

「ボリジ……」


 わたしは一つを手に取ると、まじまじと見つめた。


「オレも、手伝ったの。ジシンサクだから、美味しいよ!」

「……あり……がとう」


 何かしてもらったらオレイを言うものだとアサヒが言っていたことを思い出して、かろうじて口に出す。

 子供はニカッと笑うと父親に手を引かれて山を降りて行った。

 


 初めて会ったとき……アサヒは崖の果てで、身体を小さくし、隠れるようにして泣いていた。

 その背中は……幼き日に見た母の姿と重なった。

 なぜこんなところにヒトが、と思うより先に声をかけてしまった。

 いつもなら、見て見ぬふりをして去ってしまうのに。


 大事な人が死にそうになっているのだとアサヒは言った。

 泣いていたのにいつの間にか笑っていて、ヒトとはおかしな生き物だと思った。

 しかし……わたしの知っているヒトとアサヒは、大きく違っていた。


 ヒトはわたしのように空を飛ぶことはできず、長い時間海に潜ることもできず、短命で、強い衝撃ですぐに死んでしまう非常に弱い生き物――それが、わたしの認識だった。

 なのに、あの日――アサヒは空高くから真っ逆さまに地面まで落ちたのに、何事もなかったように立ち上がった。

 そして、ヒトとは思えぬ敏捷性と怪力を発揮して、子供たちを事故から救った。


 どこから来たのか――それには、アサヒは答えなかった。

 外の世界には、アサヒのような稀有な人間がまだまだいるのだろうか。

 どのような世界なのだろうか。

 わたしは初めて、他に対する興味を持ったように思う。

 しかし……それは到底、叶わぬ夢だ。


 ――あの日、アサヒが現れて……去ってから、わたしの日常は少し変わった。

 ただただ退屈だった毎日が、少し色づいて見えた。

 注意深く大地を見ていると……いろいろなことに気づく。


 葉が赤くなる樹とならない樹がある。

 花が咲く草と咲かない草がある。

 雨が降った次の日は川の勢いが速い。

 晴れた日は遠くの音がよく聞こえる。


 ――アサヒに出会わなければ、すべて知らなかったことだった。


   * * *


「ドゥンケ、ちょっとどいてー!」


 そう言って朝日が再び現れたのは、初めて会った日から半年後の、冬のことだった。

 わたしが崖の上のいつもの場所で寝ていると、急に頭上から降って来たのだ。


「……」


 わたしが黙って少し身を起こすと、朝日はその隣にひらりと舞い降りた。


「久し振り」

「……本当にアサヒはヒトなのか?」

「一応……そうよ? あ、そうだ。ドゥンケにお礼を言いに来たの」


 アサヒはそう言うと、わたしに笑いかけた。


「あれからね……やるべきことが、見えてね。頑張ってる。根本的にはまだ何も解決してないけど……」

「誰かが死ぬとかどうとかの話か」

「そういうことは言わないで!」


 アサヒは急に叫ぶと、ギロリとわたしを睨みつけた。

 その瞳には涙が溜まっている。


「今度は泣くのか……」

「ドゥンケが無神経なことを言うからでしょ!」

「……」


 本当に、面倒臭い生き物だ。


「ちなみに、悪いことをしたときは、『ごめんなさい』か『すみません』よ」

「……言葉は知っている。しかし……」

「……」

「……すまん」


 アサヒの迫力に押されて、わたしは素直に謝った。


 ……本当に、アサヒはヒトなのだろうか。

 この、わたしすら圧倒するオーラは何なのだ。


 憮然としていると、アサヒが

「それで、ドゥンケはどうしてたの? この半年で何かあった?」

と聞いてきた。


「森の集落には……たまに顔を出す。近くを飛んでいると、あのときの子供が大声で呼ぶのでな」


 わたしは溜息をついた。


「……面倒臭い」

「ふふっ……」


 アサヒが楽しそうに笑う。

 不思議に思ってアサヒを見つめると

「そうは言ってもドゥンケ……少し嬉しそうよ」

と言ってポンとわたしの肩を叩いた。


 ……嬉しそう?

 自分の顔を両手で触ってみるが……よくわからん。


「他の集落も覗いてみたらいいんじゃない? ドゥンケが手助けできることがあるかもよ」


 そう言うと、アサヒはすっくと立ち上がった。


「ごめん……今日はもう、帰るね。ユウに黙って出てきてるの。心配させるかもしれないから」

「……そうか」


 ユウというのが、その死にそうになっている大事な人間なのだろうか。

 そう思ったが、わたしは何も言わなかった。

 またアサヒが泣き出しても困る。

 ……困る?


「また来るね。そのとき、他の集落はどうだったか教えてね。ドゥンケに宿題よ」

「シュクダイ……とは何だ」

「ドゥンケがやっておかなければならない仕事ってことよ」


 アサヒはそう言うと、少し笑ってあの不思議な切れ目の中に消えていった。



 アサヒが言ったシュクダイとやらは面倒臭いことこの上なかったが、退屈な毎日を変えるのには十分役に立った。

 少し離れた場所から、ただただ眺めるだけだったが。


 最初はビクビクしていた集落の人間も、わたしがじっと見ていることに徐々に慣れていった。

 遠くに逃げ出す人間は極端に減り、話しかけてくる人間すらいた。


 民は毎日忙しそうに働いている。

 子供たちは元気に集落を駆け回り、時には大人たちを手伝っている。

 今まで気にも止めなかったその光景は……退屈なわたしの毎日を少し紛らわしてくれた。

 わたしと違い、民は――一日たりとも、同じ日常を過ごしてはいないのだ。


 アサヒの言う通り、各集落ではヒトがやるにはなかなか大変な仕事もあるようで……気が向いた時には、少し手伝ったりした。

 ……本当に、たまにだが。

 そうすると、民は「ありがとうございます」と言ってくる。

 アサヒが教えてくれたその言葉は、特別な響きを持っている……気がする。

 言われると、少し嬉しいような、恥ずかしいような、もっと聞きたいような、それでも逃げ出したいような、不思議な気持ちになる。


 そうして民と接する機会が増え……わたしは昔ほど虚しさを感じることはなくなった。

 しかし同時に……わたしは淋しさを感じることが、増えた。

 やはり、わたしはヒトとは違うのだ。

 そう感じる機会が増えた。


 ヒトは……少しずつ、成長する。そして年老いていく。

 間近で見ていると、その変化がよくわかる。

 しかし……わたしは永久にこのままだ。

 民が恐れる、ヒトでも神でもない、この姿のまま……未来永劫……。


   * * *


「――ここにいたんだ」


 声がして振り返ると、アサヒがいた。


「……それ、何?」


 わたしが手に持っていたボリジを指差す。


「ボリジという果実だ。……今、貰った」

「そのまま食べるの?」

「そうだ」


 わたしはジシンサクだと言っていた子供の姿を思い出しながら、一口かじった。

 あの子供も……少し前までは大人に叱られて泣いている、ただの子供だった。

 なのに、もう手伝いをできるようになったのか。


 こうして……わたしはすべてに置いていかれるのか。


「宿題、どうだった?」

「……退屈ではなかった」

「……そっか」


 それからアサヒが根掘り葉掘り聞くので、わたしは訪れた集落について話した。

 アサヒは笑ったり、少し怒ったりしながら、わたしの話を懸命に聞いていた。


「ふうん……ここの人達は、みんなで助け合って暮らしていて……本当に仲良しなのね」


 一通り聞いたあと、アサヒが感心したように言った。


「……ナカヨシ……」

「いい島ね。お父さんは、どういう気持ちでこの国を造ったんだろうね……」

「母のために造ったということしか知らん」

「そうなんだ」


 アサヒはちょっと驚いたように目を見開いた。


「なのにどうして、いなくなっちゃったんだろうね……」

「神の考えることは分からん。だからわたしは神になりたかった」

「……」

「だが……今は、違う」

「えっ、そうなの?」

「……」


 わたしは空を見上げた。


 目に見えぬ結界が、わたしを閉じ込めている。

 未来永劫、この場所に留まり続けろと……神の使者が言う。


 それがどんなに残酷なことか――きっと、わたしにしか解らないだろう。

 ましてや、自由に外の世界と行き来できるアサヒには、決して理解できまい。


「島も民も、変わり続ける。わたしはそのすべてに置いていかれるのだ」

「……」

「ヒトも――そしてわたし自身ですら、わたしを殺すことはできぬ。わたしを殺せるのは……より高次元の神のみ」

「え……」


 アサヒが驚いたようにわたしを見たのがわかった。

 わたしは空を見上げたまま大きく息をついた。


「わたしの望みは――神の手により、死ぬことだ」


 そうだ……わたしは、もう、置いていかれたくはないのだ。

 アサヒに出会って、嬉しいことはたくさんあった。

 だが……この「淋しい」という感情は……知りたくなかった――。



「――この、馬鹿!」


 そんな声が聞こえ、強烈な一撃がわたしの頬に突き刺さった。

 わたしはかなり吹き飛ばされ、周りに生えていた木にぶつかった。

 それがアサヒの拳だと気づくまでに、少し時間がかかった。

 アサヒは目に涙を浮かべ……荒い息をついていた。


「……何をする」


 さすがに意味が分からず、わたしは文句を言った。


「死にはしないが痛みはあるのだぞ」

「それはよかった。感じてくれないと困るわよ」


 アサヒはそう言うと、パンパンと両手をはたいた。


「死なないって聞いたから思いっきりかましたんだもの」

「だから何を……」

「このまま死んだら終わりよ」

「……」

「神のこともヒトのことも……何も分からないまま、ただ終わるだけよ。周りの人間を悲しませるだけで……」

「誰も悲しまない」

「私は悲しむわよ、少なくとも」

「……」


 そうは言っても……お前はここの人間ではないではないか。

 わたしの傍にずっといる訳でもないだろう?


「ヒトは……限りある命だから、こうも眩しいのだと、知った」

「……」

「わたしにも限りがあれば……」

「だから、そんな問題じゃ……」

「――アサヒに理解できる訳がない!」


 思わず叫ぶと、アサヒがぐっと息を呑んだ。


「……確かに退屈ではなくなった。空虚な時間は消えた。しかし……日ごと、夜ごと、希望と絶望を繰り返す。そんな……」

「――それが、ヒトだもの」


 アサヒがポツリと言う。

 私はまじまじとアサヒの顔を見た。


「ドゥンケにはわからなかったかもしれないけど……ずっと輝いているようにしか見えなかったかもしれないけど……毎日、いろいろなことがあるの。楽しいことばかりじゃなくて……辛いこともあるのよ」

「……」


 1年前のあの日――アサヒが泣いていたように……か?


「ドゥンケの絶望は、確かに私にはわからない。でも、死ぬのが望みだなんて、絶対に間違ってる。このままじゃ、神にもヒトにもなれないのは当たり前よ!」

「……!」


 神にもヒトにもなれない。

 それは……わたしのせいだというのか。


「……私、帰る」

「……」


 もう……ここへは来ないのかもしれんな……。

 そう思いながら、わたしはアサヒの背中を黙って見ていた。


 もう、あの元気な姿は見られないのだろう……。

 わたしたちは、やはり相容れない存在だったから。


 しかし……不思議な切れ目に入る間際、アサヒはくるりとこちらに振り返った。


「ドゥンケ……別の望みを、見つけてね。死ぬこと以上の望みを、必ず見つけてね。それが……今度までの宿題よ」

「シュ……!」


 意外な言葉に、私は思わず顔を上げた。


「……また、来るから」


 アサヒはそう言うと、少し微笑んで切れ目の奥に消えていった。




 そして、また……冬が来る。

 きっと……もうすぐ、アサヒが来る。

 わたしのシュクダイを聞きに、やって来る。


 アサヒ……あれから、わたしは島全体を回ってみたのだ。

 やはり結界が張られていて……外に出ることはできなかった。

 だけど、アサヒが初めて現れた、あの崖の上――その一か所だけ、なぜか小さな穴が開いていた。

 指が一本入るぐらいの小さな穴だったが……わたしには、一筋の希望のように感じられた。

 試しに、人差し指を入れてみた。

 結界の外の空気は……少しひんやりとしていた。

 でも、それは……気のせいなのかもしれないが。


 神の手によって死ぬこと。――その望みは、消えない。

 しかし……わたしは、外の世界に出てみたい。

 アサヒが見ている景色を……わたしも見てみたいのだ。


 ――それが、死ぬ前の……わたしの最大の望みだ。

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