生者の街
蚕
プロローグ
第1話
ネムは死んだ息子に微笑みかける。街はずれの小さな墓地で、ではなく、私たち三人を収めた決して多くはないポートレイトの一枚に、でもなく、まして私たちの愛情に飢えるあまり化けて出てしまった
「サヨ、昏くなる前には帰ってくるんだよ」
ネムの用意した朝食をもそもそやっている私の向かい側で、彼女は言った。
母親の慈しみを湛えた眼差しを、誰もいない玄関へ向けて。
当然、サヨの返事もドアの開く音もないが、ネムはさも幸せそうに微笑んだまま向き直ると、甘ったるそうな色をしたコーヒーをすすった。
「今日はどこへ行くって?」
「訊かないよ、そんなこと。分かってるでしょ」
なぜなら、サヨはもう遠くに行かないから。私やネムの目を盗んで、幼い彼にしか見えない何かしらを追いかけてしまって、もう戻って来られないほど遠くへ行ってしまうことは、もうないから。
「パパは、今日はどうするの?」
訊かれて、少しの間思案する。ネムを買い物にでも誘おうかと思ったが、二人だけで出かけたとサヨに知れたら、あの子は頬を膨らませるかもしれない。私には見えないが、ネムがその様を教えてくれる。
そうなればきっと、少なからず後悔するだろう。たとえそれが、サヨの何もかもを保管した巨大なデータベースから引っ張り出してきた、単なるリランでしかなくとも。
「とりあえず、庭の手入れでもしようかな。今日は天気が良いしね」
窓の外の花壇に目をやる。そこに植わった紫色の花たちは、ただ静かに、力なく揺れている。私が込めた願いなど意に介していないように。当然ではあるが。
人は死んだら彼岸へ旅立つ。では、あそこで揺れている彼ら彼女らはどうだろうか。幸も不幸も、善行も悪行もないのであれば、天国も地獄もあり得ないはずだ。彼岸の有無は意識の有無で決まるのかもしれない。
「もしかして、まだ増やすの? 構わないけれど、お手入れ大変じゃない?」
花壇をぼうっと眺めていると、ネムが心配そうに尋ねてくる。
無理もない。今植わっている苗の数よりも、これまで枯らした苗の数の方がずっと多いだろうから。気を遣っているつもりだが、どうも私には植物の世話をするのに必要なデリカシーが足りないらしい。嫌気がさした苗たちは、天国でも地獄でもないどこかへ行ってしまった。
「ああ、気が向いたら増やすかもね。手入れはちゃんとするさ」
気が向いたら。嘘だ。増やすに決まっている。それが愚鈍な私に思いつける、唯一の手立てなのだから。
ネムを救うための、たった一つの、あまり冴えないやり方なのだから。
花壇に水をやりながら、天国のことを考える。そこが死者に幸福を与える場所だとして、ではサヨが行ったであろう天国には、何があるだろうか。あの子が好きだったものでいっぱいの楽園。そこに、私やネムが入ることは許されただろうか。
サヨが私たちのもとで幸せだったかどうかなど、確かめようもない。他者の意識は開くことのできないブラックボックスだ。それは小さな子どもだろうと例外ではない。彼らは我々大人が思うよりもずっと早く、他人が己に望んでいる振る舞いを察する能力を獲得する。
だが、サヨが天国に行けたことだけは間違いない。悪事をはたらくにはあまりに幼いまま、あの子は逝ってしまったのだから。
水やりを終え、物置に向かう。じょうろの口から垂れる水滴を見下ろし、嫌な想像をしてしまう。
ネムがしていることは、単にサヨの残像を愛でることではないのではないかと。
あの子を天国から引きずり下ろし、人形遊びよろしく、彼女の望むよう振舞わせるような、おぞましい行為ではないかと。
馬鹿げてる。〈REM〉の仕組みならある程度は知っている。私までこんな調子でどうする。
狭い物置にじょうろを投げ込む。花の世話が終わってしまえば、あとはもうすることがない。もう一度ベッドで横になるべく、玄関のドアを開き、スニーカーを脱ぐ。
日頃土いじりで使っているそれが、ずいぶんと汚れていることに、今更気づいた。
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