第333話 荒療治、決別そして夫婦

 


 ――何となく、その夜は彼女がやって来る気がした。


 普段はセレネちゃんと一緒に寝るはずのテイアさんが今日は何故か子供たちを寝かせてから静かに戻ってきた。

 周囲には俺たちしかいない。


「セレネはぬいぐるみを気に入ったみたいですよ。抱きしめて眠っています」

「そうか。それはよかった」


 テイアさんは俺の隣に寄り添うように座った。

 しばらく沈黙の時間が過ぎていく。

 気まずさはない。安心する心地良い時間だ。ほのかに甘い香りが漂っている。


「――セレネに『夫婦って何をするの』と質問されたとき、戸惑ってしまいました」


 唐突に、テイアさんが語り出した。


「普通の夫婦って何をするのでしょうね?」

「……さあ? 結婚してない俺に聞かれてもな」


 テイアさんの過去を知っている俺はかける言葉が見つからず、誤魔化すことしか思いつかなかった。


「ふふ。そうでしたね」


 テイアさんも気にしていない様子で、悪戯っぽく微笑んでいた。

 そして、彼女は遠くをぼんやりと見つめる。


「子供は夫婦の愛の結晶と言いますが、セレネは私だけの愛の結晶です。あの子を身籠った時、愛というものが私たちの間にはありませんでしたから」

「…………」

「あっ、別にしんみりした話でも辛い話でもないです! 過去のことはほとんど忘れましたから!」

「……強いんだな、テイアさんは」

「強くないと母親なんてできません。子育ては大変なんです」


 最近はとても楽になりましたけど、とテイアさんは言う。

 恐る恐る顔色を窺ってみると、本当に過去のことは気にしていない様子だ。

 彼女は同情や気遣いを求めていない。なら、俺が言えることは――


「俺、父親になったら大丈夫だろうか? 手本が父上アレなんだが」

「あぁー……何とかなりますよ」


 何とかなるといいながら、スッと目を逸らさないでいただきたい。めちゃくちゃ不安なんだが!


「まあ、その時は子育て経験者としてお手伝いしますから」

「よろしくお願いします」


 本当に。切実に!

 テイアさんがいてくれるというのなら安心だ。


「すると私は乳母ということになるでしょうか?」

「え? お嫁さんに欲しいくらいなんだけど」

「あら。本気にしますよ?」


 俺の半分本気、半分冗談の揶揄い口調の言葉にテイアさんがクスクスと笑う。

 やっぱり笑顔の女性って素敵だ。


「私もまだ子供が欲しいですし、頑張りましょうね、パパさん?」

「本気にするぞ?」

「ふふっ」


 悪戯っぽく微笑むテイアさんだったが、俺は彼女の手が小刻みに震えていることを見逃さなかった。

 彼女はバレてしまった震える手を隠そうとして、やめた。


「あ、はは……記憶は忘れても身体はまだ覚えてるみたいです」

「テイアさん……」

「シランさん、一つお願いがあります。私の首を後ろから嚙んでください」

「え?」

「お願いします」


 髪をかき上げられ、テイアさんの艶めかしいうなじが露わになった。

 懇願する日長石サンストーンの瞳。

 逡巡した俺は結局彼女の願い通り、背後に回って甘い香りがふわっと漂う首に優しく噛みついた。


「っ!?」


 テイアさんの震えが大きくなる。

 恐怖を堪える苦悶の様子が伝わってくる。ギリッと奥歯を噛みしめる音が……。


「もっと……もっと強く……くっ!」

「ああ」


 美しい首に歯形が残るくらい噛みついた。


「んんぅっ!」


 ビクッと身体を大きく震わせるテイアさんを抱きしめる。

 最初は驚いて手を振り払おうとするテイアさんだったが、すぐに受け入れてくれた。

 二人の体温が混ざり合う。

 少しずつ、本当に少しずつ、ゆっくりと時間をかけてテイアさんの身体から力が抜けて、震えがおさまっていった。

 最終的には、俺がほとんど支えるような感じでテイアさんが身を預けてきた。


「ありがとう……ございます。やっと……やっと過去と決別して一歩前に進めた気がします……」

「荒療治は危ないぞ。二度とするな!」

「ええ。もうしませんし、するつもりもありません」


 疲れきったテイアさんの表情は、どこかスッキリと晴れやかな様子だった。

 そんな彼女を俺は抱きしめ続ける。


「ふふふ!」


 突然、テイアさんが笑い声を漏らした。俺は後ろから彼女の横顔を覗き込む。


「どうした?」

「いえ。今のようなことを夫婦はするのかなぁって思っただけです」


 言われてみれば確かに。

 心の迷いや苦しみ、愚痴なんかをパートナーに打ち明け、抱きしめて慰め、慰められ、癒し、癒される。

 苦難を分かち合い、乗り越え、支え合うことは恋人もしくはそれ以上の仲の夫婦がすることだと思う。

 テイアさんは、お腹に回されている俺の手の温もりを確かめるように、自らの手をそっと重ねた。


「明日にでもセレネに夫婦は抱きしめ合うんだよ、と教えたいです。今日は咄嗟に誤魔化してしまいましたから。こんな簡単なことを思いつかないとは……」

「あはは……あ、夫婦ならキスもするんじゃないか?」

「え? してくれるんですか?」


 え? 何故そんな話に!?


「……今、テイアさんが振り向けば頬にキスしてしまいそうだ」

「そうですか。私次第なんですね?」


 テイアさんはクスクスと笑う。今までの笑いとほんの少し違い、とても柔らかく輝いているように見えた。ドキリとしてしまったのは言うまでもない。

 まあ、前に一度テイアさんの頬にキスしたことがあったっけ? してもいいのならいくらでもしますよ?


「んー。今日はやめておきます。今はこの状態で満足です」


 この状態とは、俺がテイアさんを背後から抱きしめている状態である。

 本当に満足そうに顔をわずかに擦り付けてくるところが何とも可愛らしい。

 テイアさんを抱きしめているととても安心する。心が安らぐ。


「それにしても夫婦ですか……このままベッドに直行します?」

「おいおい。満足じゃないのか? それに今さっき荒療治はしないって言ったばかりだろ?」

「ふふっ。冗談です。今日のところはセレネをギュッとして眠りたいです」


 何とか足に力が戻ったテイアさんが俺から離れる。

 離れるのを拒むように尻尾だけは最後まで俺に巻き付いていた。

 テイアさんは急に恥ずかしくなったようだ。爆発的に顔を赤らめ挙動不審に。俺のほうを見ようとしない。


「あの、えーっと、そろそろセレネのところに戻ります」

「もう大丈夫か?」

「ええ。シランさんのおかげです」

「そうか。なら良かった」


 今まで安心感がする心地良い雰囲気だったのが、今は気恥ずかしさが充満している。


「シ、シランさん、おやすみなさい……」

「ああ、おやすみ。テイアさん」


 消え入りそうな声でもごもごと述べたテイアさんが一瞬足が止まりそうになりながらも、歩き去ってセレネちゃんの下へと向かった。

 猫耳がピョコピョコ、尻尾がユラユラ揺れるテイアさんの後ろ姿――彼女のうなじには俺の歯形が赤く残っていた。






 その日の夜以降、テイアさんは体調を崩し、床に臥すようになった。


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