第249話 堕落、そして・・・

 


 ―――落ちていく。墜ちていく。堕ちていく。


 暗い。真っ暗。深海のような深い闇を漂いながら、ソノラという存在が落ちていく。


 ゆっくりと、ゆっくりと……。


 ここは貪欲に吸い込んでいた黒い球体の中。球体そのもの。時間のない悠久の世界。囚われたものは全て等しく闇にのまれて消える。


 完全なる消滅。存在が消滅し、ただ純粋な力というエネルギーへと変換される。魂ですら無に還る。


 この世界で消滅した魂は輪廻転生の環へは戻れない。


 落ちていく。墜ちていく。堕ちていく。飲み込まれたものが消えていく。



 ―――あれ? ここは……?



 かろうじて残ったソノラの意識。僅かに開けた目に映るのは完全なる闇だけ。



 ―――そっか。私、飲み込まれたんだ。



 ソノラはぼんやりとした意識の中で黒い球体に飲まれたことを自覚した。


 全身を水で包まれたような、まるで水の中で漂っているような不思議な感覚。重力から解放された身体。


 ここには上も下も右も左も前も後ろも関係ない。ただ、一番深いところに緩やかに流されている気がする。


 痛みはない。苦しみもない。全ての負の感情から解放されて穏やかだ。お風呂に浸かっているみたいに温かくてリラックスできる。


 ふと、ソノラは自分の手を見た。指の先から黒い霧となって輝きながら消えていた。解けて、溶けて、闇と一体化する。



 ―――このまま消えちゃうのかな……?



 手首まで消え、腕の半ば、肘……と順番に消えていく。下半身は腰まで消えていた。


 負の感情がないということは恐怖もないということである。心穏やかな気持ちで、眠りに落ちるかのように意識が落ちていく。



 ―――さっきの人、思いっきり蹴っちゃったけど、大丈夫だったかな? ごめんなさいも言えそうにないけど……。



 はぁ、と息を大きく吐くと同時に、ソノラという存在そのものも吐き出してしまう。


 最期の最期、僅かに残ったソノラの意識に走馬灯が駆け巡った。


 物心ついたときには、壊れかけた孤児院で寒さに震えていた。何人も冷たくなって死んでいく仲間たち。いつもお腹を空かせていた。


 消滅する今となっては、空腹も感じられないが。


 ある日出会った一人の少年。彼との出会いがソノラの運命を変えた。


 新しく建設された孤児院。綺麗な衣服。お腹いっぱい食べられる食事。自由に学ぶことが出来る勉強。絶えない笑い声。


 あの日あの時出会った同い年くらいの少年が、全てを変えてくれたのだ。


 ソノラは彼に一生の感謝の念を抱くと同時に抱いていた恋慕の感情。


 王子と平民という身分差は理解している。彼の一番になれないことはわかっている。でも、彼の傍に居たい。彼に従いたい。彼に愛されたい。


 一度でもいいから、一夜の夢でもいいから……。



 ―――シラン……殿下!



 消えかかった口が愛する人の名前を紡ぐ。残った左目から涙が零れ落ちる。


 もう既に消えた腕を伸ばす。上に向かって。彼に向かって。


 しかし、その先は深い闇が広がるだけだった。



 ―――私は……あなたのことが……好きでした。



 たった一つの後悔。それは彼に告白できなかったこと。想いを告げることが出来なかったこと。


 折角、コンテストで優勝したら告白しようと決めていたのに……。


 落ちていく。墜ちていく。堕ちていく。


 暗い。真っ暗。深海のような深い闇を漂いながら、僅かに残ったソノラという存在の欠片が消えていく。



 ―――あぁ…………でん……か……。



 全てを諦め、闇に身を委ねるように目を閉じかけた―――その瞬間、僅かに残ったソノラの意識を強烈な光が貫いた。



 ―――えっ……?



 闇しかない世界に輝く光。それは、闇よりも温かく、優しく、強く、そして熱かった。太陽のように猛烈な熱と光を放っていた。


 光源は丁度ソノラの下腹部があった場所。ここ数日、ジンジンとした熱を放っていた原因。ソノラの子宮を包んでいたシランの魔力だった。


 身体はもう既に闇に飲まれたのに。もう溶けて解れて消えてしまったはずなのに。どうしてこんなにも身体が熱いのだろう?


 シランの魔力がより一層明るく輝き、僅かに残ったソノラを優しく激しく照らし出す。


 まるでソノラに、消えるな、と訴えているかのように。



 ―――ふふっ。やっぱりシラン殿下って王子様だ。あれっ? 本当に王子様だっけ?



 僅かに残った意識の中で笑うソノラ。



 ―――あぁ~あ。やっぱり私って殿下のこと好きだなぁ。



 光を放つシランの魔力、そして、熱く燃え滾るシランへの愛で存在の消滅が止まる。


 熱く感じる自分の身体の形をベースに再構築。崩壊して消え去った存在や魂は周囲に漂うエネルギーで代用。闇色の虚空から力が流れ込み、ソノラの身体が再生していく。


 顔、首、肩、腕。逆再生のように巻き戻り、今までソノラを飲み込むだけだった力を逆に飲み込む。


 膨大なエネルギーがソノラの身体を再構築し、強化し、存在の格を引き上げる。



 ―――殿下……私は……!



 再生した手でシランの魔力を胸に抱いた。熱くて温かい優しい魔力。


 シランの魔力、この闇の世界を構成する全てのエネルギー、それを全てソノラは吸って、飲み込んで、飲み干して、吸収して、適応して、昇華して、最適化する。


 喰らって喰らって全てを喰らい尽くして――――世界が光に包まれた。




 ▼▼▼




「―――っていう夢を見たんですよ。とってもリアルで驚きました」


 ソノラの声、ソノラの口調でソノラが言った。

 さっきからソノラの言葉が止まらない。

 そして、ベッドに座るソノラは、どよ~ん、と悪夢を見た後のように疲労感を漂わせる。


「暗部は出てくるし、人のことを神様だって言うし、生贄を用意したとか、力が欲しい、美しさが欲しいとか、なんて自分勝手な人が出てくる悪夢だったんですか!? 最後には暗部に殺されちゃったんですよ、私!」


 ウガーっとソノラの愚痴に怒りが混ざった。


「それに、それにぃっ! なんか自分の身体はボンキュッボンになってたし! なんでおっぱいがバインバインになった夢を見なくちゃいけないんでしょうか!? 現実はこうやって残酷なのに……!」


 哀愁漂わせながら、血の涙を流さんばかりに自分の胸を揉むソノラ。

 ソノラの胸は、その……控えめだったのだが……。

 むにょん、擬音をつけるとしたらそんな音だっただろう。


「んっ? むにょん?」


 目を閉じて、違和感について、自分の手の感触について、じっくりと考え始める。

 五分ほど揉みしだき、やっと自分の胸の違和感の正体に気づいたのか、ソノラは目を見開いて胸を確認した。

 前のソノラではあり得なかった深い谷間が存在する二つの双丘。圧倒的な存在感を放つ巨乳がそこにはあった。


「なっ! なぁっ!? おっぱいがバインバインになってるぅ~!?」

「……ソノラ、後ろ」

「ふぇっ? は、羽!? 尻尾!? は? はぁっ!? これも夢!? って、痛い! で、殿下、鏡はありませんか!?」

「ほら、どうぞ」

「ありがとうございます!」


 慌てて鏡を確認し始めたソノラは、映った人物に愕然とした。

 そこに映っていたのは、紫に近いピンクの髪、黄金の輝きを放つ黄玉トパーズのような魅了眼を持つ、あらゆる人を魅了し堕落させる人外の美貌の持ち主だった。


「な、なんじゃこりゃ~!?」


 ソノラの面影を残した顔、ソノラの声、ソノラの口調で淫魔サキュバスとなったソノラが叫んだ。

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