第5話 空席

「それ、葉月のノートか?」

どういうつもりか、今朝は哲也が美澄の隣に座っている。

二人はそれなりに楽しげに会話しているので、どこかムカつくものを感じながらも、俺は葉月のノートを見返していた。

お手本みたいに綺麗な文字に、見やすいレイアウト。

中途半端な消し残しや紙の折れは見当たらない。

哲也は、その綺麗なノートの表紙に書かれた「現国」の文字を見たのだろう。

「よく貸してくれたな」

「そうだな」

俺も意外だった。

昨夜はノートを胸に抱きかかえて眠りたいくらいだったが、出来る限り触れない方がいいと思い、取り扱いに注意を払った。

今も極力触れないように、制服のそででノートを掴んでいる。

「くっついて開かないページがあるんじゃないか?」

なっ!? コイツ、葉月絡みで下品なことを!

「お前が葉月の物に触れることは絶対に許さん」

「冗談だよ。ただ、アイツもそれくらいしてやらなきゃ乗り越えられないんじゃないか?」

「また逆療法か? お前はりてないのか!?」

葉月自身、今のままがいいと思ってるはずが無いんだ。

除菌のウェットティッシュは必需品だし、事あるごとに手を洗いに行くし、そういったことが原因で男子とのトラブルは絶えないし。

時々アイツは、声の無い悲鳴を上げてるんじゃないかって、そんな風に思うこともある。

「俺は、あの時のアプローチは間違ってなかったと思ってるけどな」

「おまっ、どの口が──」

ちょんちょん。

え?

美澄が俺のひざをつついてから、窓の外を指差した。

見慣れた海が見えた。

たぶん、落ち着かせようとしたんだろう。

「お前にも逆療法が必要だと思ったんだよ」

「は?」

意味が判らない。

どこか余裕のある表情もムカつく。

「ていうか、当の葉月が休みだからってイラついてんじゃねーよ」

「ぐっ!」

なんだそれ! 俺はガキかよ!

……いや、そっか……そうなんだ。

いつも視野の隅にとらえている葉月がいないと落ち着かない。

そっか、俺は、葉月に飢えてるんだ。

だから、こんなノートの葉月の文字を追っていたのか──

こういうの、何て言うんだっけ?

最初から、葉月のことは好きだって俺の中で決着はついてる。

けど、そうじゃなくて、この込み上げてくるみたいな渇望と、ぎゅうっと締め付けるみたいな切望は、好きとか大好きとかじゃ足りなくて、えっと……狂おしい?

何それ? やべー。

狂おしいほど好きって何だ、笑える。

あーでも、それって、ちょっと参ったなぁ……。

ちょんちょん。

「ん? どうした、美澄」

不意に黙り込んでしまったから、心配させてしまったかも知れない。

美澄は右手で輪っかを作り、左手の人差し指を──

──もうすぐトンネル入るよ?

……いや、今その情報いらんし。


「あれ、今日は葉月ちゃん休み?」

「葉月ちゃん言うな」

政太が俺をからかうために、わざとそう呼んだのは判っているが、かといって聞き流すことは出来ないのである。

葉月が学校を休むのは、高校に入って初めてのことだ。

教卓の前の席が空いているのは何かが欠落しているような違和感を覚えるが、要はまあ、俺が寂しいだけのことだ。

葉月の席に近い男子達は、心なしか開放的になっている気がする。

いつもよりだらしない座り方と喋り方、どこか態度が大きくなっているが、それも判らないではない。

息を呑むほどの美貌と超絶に冷ややかな視線、それから除菌ウェットティッシュの組み合わせは、傍にいる男子を委縮させるに充分だ。

が、そいつらは一線を越えた。

俺は立ち上がる。

「おい、和真」

政太が心配そうな顔をする。

俺が立ち上がった理由を察しているのだろうから、大丈夫だと笑みを返して葉月の席に向かう。

べつに怒るほどのことではない。

たぶん葉月が嫌がるだろうから、俺が葉月の代わりに言うだけのことだ。

「そこ、葉月の席なんだけど」

座っていた男子が、隣の席の男子との会話を止めて俺を見上げた。

確か名前は磯崎で、今までほとんど喋ったことは無い。

「あ?」

まあ、そうなるよな。

俺は学校で葉月と親しくしているわけじゃないし、俺に言われる筋合いは無いと思うのが普通だろう。

「アイツ、他人が座ると嫌がるからさ、悪いけどそこに座るのは……」

「お前、三島のパシリか何かなの?」

敵意というほどのものは感じられないが、素直に退くのもしゃくに障る、といった感じだ。

「いや、ただアイツとは昔からの知り合いなんだ」

「それで葉月なんて呼べちゃうんだ? 本人にも?」

隣の席の男は、純粋に好奇心といったところか。

「ああ。昔からそう呼んでる」

「ホントは葉月様とか呼んでんじゃねーの?」

磯崎の方は、少し挑発的ではある。

卑屈な雰囲気も持っているし、葉月がどうこうと言うより、俺自身がこんなヤツには座ってほしくない。

ただ、挑発に乗るつもりもない。

「呼びたくなることはあるな。アイツは氷の女王だし」

笑ってみせる。

「まあ、確かにバレたらおっかない」

磯崎も笑って立ち上がった。

「悪いな」

「いや、お前も黙っててくれよ。除菌されるのを見るのは俺だって嫌だしさ」

黴菌ばいきん扱いされるのは誰だって嫌だ。

その点は葉月の味方は出来ないから、苦笑してうなずく。


「ヒヤヒヤした」

「んな大袈裟な」

「撮り立てホヤホヤの動画、見るか?」

「また盗撮かよ」

「まあ、何かあった時に、こっちに有利なものが撮れるかも知れんから、一応な」

意外と頼もしい。

けど、後で葉月が知って悲しむようなことは絶対にしないと決めているから、これから先も、揉め事なんて起きないだろう。

少なくとも表面上は。

ちょんちょん。

「ん?」

──カッコ良かった。

は? どこがだ?

下手に出て、冗談で誤魔化して、どうにか言うことをきいてもらっただけなのに。

──変わらないでね。

……たぶん、変われない。

だから頷く。

変わらないことと変われないことは、同じなのかは判らないけど。






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