第6話 アタシの青春に付き合ってください! 《仰木颯》

 それはたぶん、「恋」とは違う感情だろう。彼女の余韻にときめいたわけでもないし、その表情に恋したわけではない。ただ、自分の気持ちに従っただけだ。気持ちの奥にある、決して褒められない感情に。だからベッドの上から起き上がった時も……罪悪感ではないが、不思議な感覚を覚えただけだった。善意と悪意の狭間にある、妙に生々しい感情を。

 

 僕は(たぶん)悪人ではないが、だからと言って善人でもないのだ。

 

 黒にも白にも染まれない、中途半端な存在。

 僕が他人を思う優しさは、同時に自分自身を励ます優しさでもあるのだ。

 

 僕は学校の制服、学校の制服は標準的な学生服だ。そのワイシャツを着て、黒色のズボンを履き、襟元に「Ⅰ」の学年章が付いた上着を着て、ズボンの後ろポケットに財布、上着のポケットにスマホを入れ、学校の鞄を持って、家の洗面所に向かった。

 

 家の洗面所は、部屋の中から出て、その廊下をしばらく行った所にある。洗面所の隣には脱衣所と洗濯機があって、梅雨の時期に制服(主にワイシャツ)が濡れたり、部活や体育の時間に汗をかいたりすると、洗面所の前に鞄を置き、洗濯機の中にジャージやらTシャツやらを放り込んだ。


 濡れた服をずっと着ているのは、流石にちょっと気持ち悪い。その身体が汗でベトベトになっているのも。だから汗をかいた後は、洗濯機の中に服をぶちこんで、そのままシャワーを浴びていた。

 

 僕は洗面所の前に立ち、自分の顔を洗って(鏡に映る自分の顔には、いつもガッカリしているが)、家のダイニングに向かった。


 ダイニングの中には、両親の姿があった。父さんはいつものスーツを着て(少し灰色掛かったスーツだ。ネクタイの色は、落ち着いた感じの茶色)、テレビのニュースを観ている。母さんは父さんの湯飲みにお茶を注いでいたが、僕が母さんに「おはよう」と挨拶すると、急須の注ぎ口からお茶が漏れないように少し傾けて、僕の顔に視線を移し、穏やかな顔で「おはよう」と言って、いつものように「クスッ」と笑った。父さんも僕の顔に視線を移し、少々無愛想ではあるが、落ち着いた顔で「おはよう」と返してくれた。


 僕はテーブルの椅子を引き、そこにやや素早く座ると、母さんが運んできた今日の朝食を食べはじめた。

 

 今日の朝食は、昨日の残り物。ご飯の上に掛ける納豆は別だが、ワカメと豆腐の入った味噌汁は、昨日の夕ご飯にも出て来た物だった。それらを黙って食べつづける。味噌汁が飲みたい時はその味噌汁を啜り、ご飯が食べたい時は表面の納豆ごと静かに掻っ込んだ。


「颯」


「ん?」と言いつつ、父さんの顔に視線を移した。「なに?」


 父さんは僕の顔に視線を移し、その目をしばらく見つめてから、何かを確かめるようにそっと訊きはじめた。


「部活はもう、決めたのか?」


 頭が一瞬、真っ白になった。返事自体は、とても簡単である筈なのに。喉の辺りまで上ってきた「まだ」の返事が、見えない圧力に押さえられてしまった。


 僕は喉の抵抗を何とか退き、有りっ丈の作り笑いを浮かべた。


「高校には、色んな部活があるからね。その」


 まだ……の一言は結局、言えなかった。


「ごめん」


「そうか」からの沈黙が、少し怖い。テレビの画面には明るいニュースが流れているが、それがかえって、今の沈黙をより怖くさせていた。母さんも黙って、僕達の会話を聴いている。


「まあ、焦る事はない」


 父さんは一口、湯飲みのお茶を啜った。


「高校は……順調に進めば、だが。三年間はあるんだ。お前の意思とは、関係なく」


「父さん……」


「お前の原石を磨ける場所が見つからないなら、それが見つかるまでじっと耐えるのも青春だ」


 キラキラ輝くだけが青春じゃない、と、父さんは言った。


「若い時に自分を磨いておかないと」


「歳を取った時に苦労するからね」と、母さんが続く。


 母さんは(思う所があるのか)、ちょっと悲しげに笑った。


 僕は(複雑ではあったが)二人の言葉にうなずくと、今日の朝食を食べ終えてからすぐ(父さんが会社に行くのを見送り)、家の洗面所に行って、自分の歯を磨き、またダイニングに戻って、学校の鞄(指定の鞄はないので、僕は市販のリュック鞄を使っている)を背負い、家の玄関に向かった。


 それに続いて、母さんも家の玄関に向かった。学校に行く僕を見送るために。

 母さんは優しげな声で、僕の背中に「行ってらっしゃい」と言った。

 

 僕は母さんの方に振り返り、その声に「行って来ます」と応えて、玄関の外に出て行った。

 

 玄関の外には、いつもの風景が広がっている。コンクリートで舗装された庭や、庭の中にある車庫や駐輪場などが。車庫の中は空になっていたが、駐輪所の中には、僕と母さんの自転車が停められていた。母さんの自転車は、女性が好きそうなクリーム色。僕の自転車は、普通の高校生が使っていそうなシルバーカラーだった。

 

 僕は自転車の籠に鞄を入れ、そのサドルに跨がると、ペダルの上に足を乗せて、駐輪所の前からゆっくりと進みはじめた。


 自分の周りに広がっている風景……この風景はきっと、ごく普通の風景なのだろう。小学生のグループがはしゃぎながら歩道を歩き、そこから少し離れた所を歩く中学生達が「アハハハ」と笑い合い、それらの横を自転車に乗る高校生達が通りすぎて行く。車道を走る車の運転手や、僕のような人種の人間は少し(人に寄っては、かなり)憂鬱な顔だったが、それ以外はみんな、楽しそうに笑っていた。

 

 自分達は、今の世界を楽しんでいる。

 彼らは、現実の勝利者なのだ。

 現実が与える理不尽から、完全に切り離された存在。

 

 僕が追い抜いた二人の高校生……たぶん、カップルなのだろう。話の内容は分からなかったが、とても楽しげに「チョーウケる!」と笑い合っていた。

 

 僕は、その声にうな垂れた。

 

 僕には、女性を喜ばせるだけのスキルがない。ましてや、自分に好意を抱かせるようなテクニックも。今の僕にできるのは、異性そのモノと関わらないか、関わってしまった時に相手の心をできるだけ傷つけないようにする、あるいは優しくするようにするだけだった。

 


 学校の正門が見えて来た。正門の前には、たくさんの生徒達が見える。彼らは数人のグループを作りつつ、正門の内側に向かって歩いていた。僕もその流れに従い、正門の内側に入って、学校の駐輪所に向かった。駐輪所の中には何人かの生徒達がいたが、それらを無視して(本当は、気づかれないように)、いつもの定位置に自転車を停め、自転車の鍵をカチャリと掛けた。自転車の鍵は、鞄の中に仕舞う。


「よし」


 の声は当然、小声だ。


 僕は籠の中から鞄を取りだし、それを背負って静かに歩き出したが、学校のグランドから声が聞こえてくると、暗い顔でその場に止まってしまった。


 グランドから聞こえて来たのは、サッカー部の声。もっと言えば、幼馴染の声だった。幼馴染の声は、笑っている。今の時間を心から楽しむかのように。「青春」と「自分自身」とを完全に一体化させていた。彼が発する声の上には、女子達の黄色い声も重なっている。


 僕は、それらの声に胸を痛めた。


「うっうう」と、思わず唸ってしまう。


 別にモテたいわけではないのに(と言うか、僕がモテるわけがないのに)。


 女子達の発する黄色い声が、刃のように突き刺さったのだ。


 女にモテない男に価値は無い。どんなに正しい事、人間として素晴らしい事をしても、女性の快を満たせない男は、「生物」としては欠陥品。

 彼女達が欲しいのは、生物として優秀な男であって、人間として素晴らしい男ではないのだ。今の僕は、そのどっちも持っていない。

 

 真っ黒な泥が、僕の魂を濁らせて行く。

 

 僕はその泥に俯き、駐輪場の中から出て、コンクリート敷きの地面を歩き、昇降口の中に入って、自分の下駄箱に行き、下駄箱の中に手を入れた。


「え?」の声が漏れたのは、それからすぐの事だった。


 僕は(周りに気づかれないよう)細心の注意を払いながら、その物体をゆっくりと取り出した。


 右手に握られていたのは、一通の封筒だった。淡いピンク色をした、とても可愛らしい封筒。封筒は綺麗にのり付けされていたが、差出人の名前が何処にも書いていなかった。


 心臓が激しく動き出す。身体も少し熱くなった気がして、気づいた時にはもう、鞄の中に手紙を突っ込み、その場から逃げるように歩き出していた。


 う、うそだ、こんな事……。「あり得ない」と思えたのは、冷静な自分が肩を叩いてくれたから。そして、隣の席に座る安田さんが「お、おはよう」と挨拶してくれたからだ。


 思考が一気にクールダウンする。


 僕は、隣の安田さんに目をやった。


「おはよう」の声は、普通だった。でも、何か違和感を覚えたのだろう。


 安田さんは訝しげな目で僕の顔を見、それから妙に緊張した声で、僕に「ど、どうしたの?」と訊いた。


 僕は、返事に困った。


 正直に話すにしても、あるいは、上手く誤魔化すにしても。同級生の女子に「これ」を話すのは、かなり抵抗があった。彼女自身は(たぶん)、悪い人間ではないだろうけど。それでも、面倒な事にはなりたくない。僕の話を聞いているのは何も、彼女だけとは限らないのだ。


 僕は頭をフル回転させて、彼女に尤もらしい嘘をついた。


「な、何でもないよ。ただちょっと、考え事をしていただけ」


「そ、そう」と応える彼女だったが、まだ少し疑っている様子だった。「なら、良いけど」


 彼女は、僕の顔から視線を逸らした。


 僕は、その反応にホッとした。


 理由の方はよく、分からないけれど。僕を見つめる彼女の目が(何となくだが)、男の浮気に気づいた女性のように思えたからだ。僕と彼女は、別にそんな関係でないのに。彼女が僕に向けた眼差しは、正の周りを取り巻く女子達と少しだけ似ていた。


 僕はその視線に震えつつ、封筒の方に意識を戻し、それをいつ読むか、つまりは安全に読めそうな時間と場所を考えはじめた。



 その答えが分かったのは一時間目の授業中、そして、「それ」を実行したのは、学校が昼休みになってすぐの事だった。鞄の中に弁当箱を仕舞い、それから生徒があまり使わない体育館脇の男子トイレに向かう。男子トイレの中は静かで、体育館の中から聞こえる笑い声や、ブラスバンド部の練習演奏以外、ほとんど聞こえて来なかった。


 僕は一番奥の個室に入り、そこの便座に腰掛けると、震える手で封筒を開けた。


 封筒の中には、一通の手紙が入っていた。

 何のイラストも描かれていない、薄い罫線だけが引かれた手紙。


 僕は、その手紙をじっと読んだ。


「お話ししたい事があります」の部分はまだ、冷静。「放課後、学校の屋上に来て下さい」も緊張はしたが、冷静な自分が落ち着かせてくれた。「これは、よくある悪戯。あるいは、罰ゲームかも知れない」と。

 好きでもない男子を呼び出し、その男子に「好きです」と告白する事で、自分に課せられた罰を帳消しにする。やらされた人間は堪ったモノではないが、「それ」を見ている周りとしては、これ以上に無い楽しい光景なのだ。


 告白は、自分の気持ちを伝える武器にもなるが……同時に相手を弄ぶ遊び道具にもなる。嘘の告白で最も傷つくのは、それをされた相手なのだ。


 僕は自分に落ち着くよう言い聞かせ、手紙の最後に書かれている名前に目をやった。


「一年」


 同じ学年だ。


「A組」


 隣のクラス。


「綺堂」


 え?


「彩花」


 思考が止まった。表情も固まって……辛うじて動いていたのは、「なんで?」と呟く自分の口だけだった。


 僕は手紙の文面から視線を逸らし、(頭が混乱していた所為か)トイレの天井を無意識に見上げてしまった。


「どうして、あの子が」


 僕に?


「こんな手紙を?」


 思考のネジを巻き直し、それをフル回転させたが、疑問の答えは結局分からなかった。彼女とは、昨日初めてあったのに。正のようなイケメンならまだ分かるが、僕のような人間をす、ラブレターを出すなんて、どんなに考えても分からない事だった。


 これはきっと、何かの罰ゲームに違いない。

 彼女はその罰ゲームとして、僕に嘘の告白をしようとしているのだ。


 また、あの真っ黒な泥が溢れる。


 僕は封筒の中に手紙を戻し、個室の中から出て、タイルの壁を一発殴り、嫌な気持ちでトイレの中から出て行った。


「くっ、ううう」


 両手の拳をぎゅっと握る。周りからは確かにあまり良く思われていないが、こんな事をされるのは「流石に酷い」と思った。昨日合ったばかりの子に告白させるなんて。アイツらには人を見下す趣味はあっても、人を助ける慈悲は無いのだ。

 底辺の人間になら、どんな事をしても良い。自分達が楽しめさえすれば、こっちの気持ちなんてお構いなしなのだ。僕には僕の、彼女には彼女の気持ちがあるのに。こいつらのした事は、人の尊厳を踏みにじる行為だ。

 

 僕には、その行為がどうしても許せない。

 

 僕は右手の手紙を握り、真剣な顔で学校の廊下を歩きつづけた。

 


 運命の時間がやって来た。

 

 僕は覚悟を決めて(廊下で何故か、複数の視線を感じたが)、学校の屋上に向かった。

 

 学校の屋上には、彼女の姿、綺堂彩花の姿があった。夢や幻、ましてや、僕の作った妄想などではなく。本物の彼女が、屋上の風に髪を靡かせつつ、僕がここに来るのを待っていたのだ。


「綺堂さん」


 の続きはもちろん、「こんな罰ゲーム、する必要ないよ」だった。好きでもない相手に告白なんかしちゃいけない」と。彼女にそう言って、出入り口の後ろ当たりに隠れている黒幕達を叩き出すつもりだった。でも……。


「仰木君」


 僕の予想は、見事に外れてしまった。


「来てくれてありがとう」と言って、僕に頭を下げる彼女。その態度からは、とても罰ゲームをやらされるとは思えなかった。


 僕は慌てて、出入り口の後ろに行った。


「なっ!」と、驚くしかない。出入り口の後ろには、黒幕はおろか、人っ子一人いなかった。


「どうしたの?」と、彼女の声が聞こえる。


 僕は急いで彼女の所に戻り、その顔を真剣に見つめた。


「罰ゲーム、じゃないの?」


「罰ゲーム?」と驚く彼女だが、すぐに「ああ」と微笑んだ。どうやら、僕の言わんとした事を理解したらしい。


「そんな事、するわけないじゃん」


 アタシ、そう言うの嫌いだし、と彼女は言った。


「仰木君」


「は、はい!」


 彼女は真剣な顔で僕の目を見、それから頭を深々と下げた。


「アタシの青春に付き合ってください!」

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