夢想の国のアリス

青夜 明

第1話 川辺の白兎

 真夜中のように、真っ暗な世界の川岸にアリスは立っていた。


(どうしてこんな所にいて、どうしてこんな所に川があるの?)


 道筋のない風が黒髪のショートカットを揺らす。黒い瞳を動かしてみても、川と暗闇以外は何もない。頭上に青色の、首元に赤色のリボンを結び、夜明け色のロリータ服を着ているのはアリスの趣味だ。

 アリス、というのは本名ではない。だが、名字がそう読めるからという理由で、昔から彼女のあだ名はアリスだ。最初に冗談で着てみたアリス風コーデが受け入れられ、悪い気持ちにもならなかったので、彼女は以後アリスのように振る舞っている。

 そんな彼女が困ったように腕を組んでいると、肩を叩かれた。


「……、ん?」


 振り向けば、白い兎耳を付けた、チョッキ姿の白髪の青年がいる。


「ん……??」


 アリスが困惑していると、白兎の青年は可笑しげに桃色の瞳と口元を細めて笑い、口を開いた。


「こんな所に突っ立っていたら遅刻しちゃうよ、アリス」


 それを聞いて、アリスは尋ねたいことが沢山浮かぶ。何者なのか、何故白い兎の耳を付けているのか、どうしてアリスという呼び名を知っているのか、一体何に遅刻するというのか。

 声に出す前に、白兎の青年は首から下げている懐中時計を開く。アリスが覗き込むと、時計の針が止まっていた。


「壊れてる……」


 アリスが呟けば、白兎の青年は頷く。


「うん、壊れている、壊れちゃった。でも、まだ壊れきっていないから、行こうかアリス」


 何処へ、とアリスが首を傾げるよりも早く、不意に足元の重力が消えた。


「ひっ!?」


 そして、突然落下する。

 愉快そうな笑い声が聞こえた気がしたものの、視線を向けても誰もいなかった。白兎はというと、自分より下で呑気な声を出している。


「おお、派手な移動の仕方だなあ」

「そんな事言ってる場合!?」


 アリスは冷静になろうと考えてみた。理解できたのは、空いていなかった筈の大穴に落ちていること、何もできないこと、最悪の場合は勢いで死に至ることだ。

 アリスは慌てずに、溜め息を吐く。


「このまま死ねるならいいや……」


 代わりに、白兎の青年から慌てる声音が聞こえた。先程よりも小さく、何を言っているのかは分からない。見れば、遠く離れた所にいる。


(先に死ぬのかな、あの人。巻き添えにしてごめんなさい……)


 後悔が過ったものの、それすら消え失せてしまう程に、長く、永く、穴は続いた。やがて、白兎の青年の姿は見えなくなってしまう。

 終わらない時の間に目を凝らしてみれば、壁と思わしき場所に棚が貼り付いているのが見えた。


(何か置いて……あれ?)


 気付くと、手元に小瓶がある。思い出と書かれたラベルのそれは、何故か空っぽだった。


(ええ……気味悪い……捨て……いや、白兎のお兄さんにぶつかったら可哀想だな……)


 アリスは考え、余った時間を使って小瓶を棚に置こうと試行錯誤した。

 それが成功した直後に、落下の終わりが訪れる。痛みが走ったが、不思議と怖くない。むしろ、温かささえ感じた。

 閉じ行く視界の中に、ぼやけた夜明けの色と、枯れ葉や小枝が見えた所で、アリスは意識を手放した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る