海が太陽のきらり
瀬夏ジュン
第1話:陽子とぼく
白い砂も、うち寄せる波も、魅力的ではなかった。
沖のほうほど濃くなる青い色が水分子の本当の色なのだと、ぼくは知っていた。
足に触れる海水が意外に温かく感じることも、溶けた塩のぶんだけプールより浮きやすくなることも、磯の匂いは少し臭いことも、すでに織り込み済みだった。
屋外で水と戯れる必要など、どこにもなかった。
なのに海に入ってみようと思ったのは、彼女のせいだった。
深い色をした海面に、何者かがいた。
イルカのようなバタフライでしぶきをあげていた。
見とれていると、ふいに消えた。
その後、しばらく姿を見せない。
へんな予感で胸が騒いだころ、波間に頭がちょこんと出た。
じっとこちらを見つめている。
と、仰向けになってアメンボのように水面を滑り始めた。
かと思えば、今度は大げさにクロールする。
ぐるぐると円を描いて泳ぐ。
脚を高く上げる。
どうやら、見せつけている。
奇妙なことだけれど、自分にも出来るとぼくは思ったのかもしれない。
そろそろとスリ足で進むうち、水は腰まで来た。
ぼくは塩水めがけて飛び込んだ。
とにかく美しい放物線を描いたつもりだった。
その先はどうすればいいか知らなかったのだから、まったくバカだった。
何をやっても身体が浮かないのが致命的だった。
塩辛いだけの海水は、浮力で助けてくれはしなかった。
背丈ほどもない浅瀬で、ぼくは手足をばたつかせてあがいた。
いつの間にか女の子がいた。
彼女は水中で目を見ひらいていた。
驚いているような、楽しんでいるような、あるいは探していた宝物をやっと見つけたかのような、不思議な表情だった。
イルカのようだと思った。
どんなふうに運んでくれたのか不明なのだけれど、おぼれた一瞬後にぼくは波打ち際にいた。
「服を着たまま飛び込む人って、はじめて。しかも泳げないなんて」
なにかいい返そうと横を向くと、寝そべる彼女と目が合った。
「あたし陽子、高2。この町に住んでる。あんたは?」
涼しげな視線は、ぼくの中のどこかを探っていた。
「海斗、高2。シティー34から親の実家に遊びに来た」
「海に関係ある名前じゃん」
「実際は、ゆかりがなかった」
「今日、ゆかりができたね、うれしいね」
「べつに」
彼女は、ぼくの額を人差し指で突っついた。
「明日も来なよ、海とどうやって付き合えばいいか教えてあげる」
よく焼けた肌とベリーショートの黒髪を持つ少女が、この時ぼくの奥底に忍び込んだ。
砂が熱かった。
雲ひとつない塗りつぶされたような空に、海鳥が飛んだ。
特別な夏なのかもしれなかった。
陽子のもとへ、ぼくは毎日通った。
まずは彼女に会いたかったからだ。
「あたしからすれば、ほとんどの人が泳ぎの素質がないタイプ」
豪語するだけあって、陽子のパフォーマンスは別次元だった。平泳ぎだって背泳ぎだって、凄いスピードで進む。足先を先頭にして反対に泳ぐのを見たときには、心底驚いた。
「そのタイプの中でも、あんたは特別ダメな感じ」
しょっぱなから非情な宣告を下されたっけ。
彼女が見せた笑顔を、ぼくは思い出す。
「だから普通に泳がなくていいの。潜ってみなよ、それも水泳のうちだよ」
彼女はゴーグル、スノーケル、足ヒレの三点セットを差し出して、最初から素潜りを教えた。
自身はなんの道具も身につけない彼女に誘われて、ぼくは水面下を訪問することになった。
「腕でゆっくり水をかきよせたら、横にピッタリつける。あとは身体を一直線に伸ばす」
それだけでいいと、陽子はいった。
「行きたいほうへ頭を向ける。気が向いたら、イルカのように全身を波打たせるといいよ」
彼女のマネをすると、魔法のようにうまくいった。
薄い一枚の水面だけが大気と隔てる領域に、ぼくはゆっくりと入っていく。
頭でっかちの高校生が想像だにしなかった楽しい時間が、水色の世界に待っていた。
温かい表層では、群れた小魚が迎えてくれた。
ヘビのように細長いフルートフィッシュが、いきなり曲がりくねって脅かす。
少し潜ると、四本スジのフエダイが舞う。
銀アジの大群がつむじ風のように横切る。
色とりどりの魚たちが集まるサンゴには、よく見れば小エビやウミウシが乗っていて、ぼくの注意力を試している。
カワハギが岩の藻をかじって音を立てたかと思うと、大きな目をした赤いサージョンフィッシュはひっそりと隠れている。
「海の生き物は仲間」
と彼女はいう。
慣れてきて沖まで行くようになると、アオリイカのカップルと顔見知りになった。彼らはいつもピンクソフトコーラルの林にいる。
洞窟の独り身ロブスターとも友達になった。
なぜか彼は、いつも険しい顔をしている。
砂場に生えているガーデンイールたちとも馴染みになった。
シャイ過ぎてすぐ隠れてしまうのが彼らの欠点だ。
すべては知識で頭に入っていた。
けれど、実際に塩水の抵抗を受け、水圧に耐えて潜ってみると、すべてが違った。
生まれたままの自然の姿で日々を過ごす生き物たち。
彼らに混じって漂ううちに、自分は彼らの仲間であるかのように錯覚する。
ぼくも地球上の生命の一員なのだと思いたい。
誰かのシナリオ通りに動いたりしない、ひとつの命でありたい。
たとえ無謀な考えでも。
間違った願いでも。
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