姉妹記念日
加茂井水月
姉妹記念日
ぷりん
小学二年生。家。双子の姉妹。
「ちょっと、みーちゃん!私のプリン食べちゃったでしょ!」
そう叫びながら、沙月がソファーに寝っ転がっていた美月の上に飛び乗る。お腹の上にぺたんと座り込むと、美月がふぎゅーと変な声を上げた。
「何すんの、さーちゃん」
「とっといたプリン食べたの、みーちゃんでしょうが!」
「……冷蔵庫の?」
「そこ以外、しまうところがあるか!」
「……ごめん。さーちゃんのだって、知らなくて」
「もう!」
大きな瞳に涙を浮かべた沙月が、勢い余ってか、美月のおでこに頭突きした。ごちんと、鈍い音が耳の間に響く。
「いったぁーいぃ!」
情けのない攻撃を受けた美月が、情けない悲鳴をあげて自分の額を押さえる。触ると、ちょっと膨らんでいて、たんこぶができたかもしれない。
泣きべその美月に追い打ちをかけるように、沙月は美月のほっぺたをつまんでぐねぐねする。額だけじゃなくて、頬まで赤くなってきた。
「こらこら、明日また買ってきてあげるから、ケンカしないの。痛いのは、だーめ」
いよいよ美月がやり返すかというところで、微笑ましそうに姉妹を見守っていたお母さんが仲裁に入った。
「え、ほんとぉ、お母さん!」
「ええ、ほんとよ」
「よっしゃー!」
沙月は、プリンが食べられるとわかると、今までの怒りは全部忘れたかのようにすぐに機嫌を直した。美月の頬から手を離すと、指の形で頬が白から赤色に変わる。
手を離してからも、沙月はまるで狙いでも定めるみたいに、じっと美月を見つめ続けていた。依然として馬乗りのまま。
「えい!」
と、その瞬間、離した二つの手を美月の顔の真横にばんっと叩きつけて、沙月が美月のくちびる目掛けて思いっきりキスした。ぷっくり丸いタコさんチュウ。ちょっと荒くなった鼻息がかかり合うくらいの位置。たっぷり3秒間、覆いかぶさった後、がばっと沙月が顔を上げる。美月の顔が真っ赤なのは、まだ治らないみたいだった。
「なっ、なにすんの…!」
「えっへっへー、仲直りのチュウだよっ」
美月の困った顔の、今度はほっぺにキス。
「痛いのしてごめんね、みーちゃん」
その次はおでこ。
「ちょっと…やめてよ…」
「えー、いいじゃん」
いつの間にか、沙月は太陽みたいに眩しい、満面の笑みを浮かべている。美月も泣き止んで、恥ずかしそうに微笑んでいる。
「ほんと、仲が良いのね、美月も沙月も」
お母さんもすっかり癒され顔だ。
「そ、そんなことないし!」
美月が取り繕うみたいにそんなことを言ったけれど、お母さんは嬉しそうな顔をいっそうほころばせただけだった。
ゆうぞら
中学二年生。秋の夕方。
「二人とも〜。夕食の買い出し行ってきてくれない?」
お母さんが、美月と沙月の、生まれて以来ずっと同じの二人部屋の、扉の向こうから声をかけてきた。
「はぁー?なんで二人で行かなきゃなんないの?美月、一人で行ってきてよ」
携帯型のゲーム機をピコピコやっていた沙月が、画面から目を離さずに不満を垂れる。
「それこそ、なんでよ」
すかさず美月がつっこむ。参考書との白熱のにらめっこを一時休戦して声の方へ振り返ると、沙月が床に寝転がって怠惰を体で表現していた。その芸術性だけは評価しないでもない。
「こちとら、バレーで疲れてんの」
バレーとはつまり、沙月の所属している部活のことだ。
「私だって部活あったもん」
「あったもんて、美月は美術部だろー。疲れ方が違うんじゃい」
「絵を描くのにも体力いるの!とにかく、私だけ行くなんて、不公平でしょ」
「…うーん」
これだけ言っているのに、沙月は少しも視線をよこそうとしない。返事も心ここにあらずで、のれんに腕押しだ。
「…沙月が一緒に来ないなら、沙月の大好きなチョコレート味のポテチ、買ってきてあげないから」
「え」
はじめて、沙月がそれらしい反応を見せた。真偽を見定めるために、ゲーム機越しに美月を見つめている。
美月の目はマジだ。
「あ〜、もう、しょうがないなぁ。そんなに一緒に行って欲しいなら、この立花沙月、お供してあげましょう」
ようやく、沙月が重い腰を上げる。何と言っても、あのポテトチップスは沙月のすべての活動の源なのだ。
無意識のうちに、美月が嬉しそうな笑みを浮かべる。沙月もそれにつられてフッと笑った。
「初めからそう言えばいいのに」
「はいはい」
***
何となくで身支度して、家を出て近くのスーパーに向かう。
澄んだ空気の秋晴れだった。秋は日によって気温がまちまちだから、ちょっと外に出るにもどんな格好をすればいいか迷ってしまう。
美月はといえば、家でマフラーを掴んできたことを後悔していた。昼よりは夕方に近い時間。冷えるかと思いきや、太陽がまださんさんと地上を照らしてきて、意外と暖かい。すぐに布の下の首元が汗ばんできた。
「あっつ…」
マフラーを鬱陶しそうにほどく。そんな美月を見て、隣の沙月が面白そうにからかった。
「ばかだなー、美月は。今日は午前中からあったかかったじゃん」
そういう沙月は、半ズボンに薄手の半袖Tシャツ一枚と、確かにこの季節にしては軽装だ。
「沙月は絶対寒いでしょ!」
「寒くないでーす。鍛え方の違いか?」
「むぅ〜。帰りは、絶対寒いから!」
「筋肉を着ている限り、私に冬はやって来ない!」
「やって来い!」
しばらく歩くと、スーパーが見えてきた。この辺りでは一番大きなお店で、ここに来ればだいたい何でも揃えられるのだ。
駐車場を横切って自動ドアに近づいていくと、中から見知ったぼうず頭が出てきた。
「あっ、お前はラクロス部の田中!」
「むむっ!これはこれは、立花姉妹ではありませぬか」
美月と沙月と、小・中と同じ学校に通う、田中だった。外見・言動ともにこれといった特徴のない男だけど、強いて言うなら田中はラクロス部だ。
田中は二人並んで立っている姿をまじまじと見ると、丸眼鏡を光らせてニヤッと笑った。
「相変わらず仲がいいでござるな」
「どこが」
沙月が二人の見解を代表して反論する。
「姉妹そろって買い物であろう?仲いいでござる」
「お母さんが二人で行けって言っただけ」
「ふむん…なるほどなるほど」
「何がなるほどなんだよ。言いたいことあるなら言えよ、このラクロス部の田中ふぜいがよぉ」
沙月が田中を睨ね上げる。堂に入ったヤクザのようだ。
「沙月、言葉遣い悪いよ」
「なんだよ、美月は田中の肩もつのか?戦争か?」
「そ、そういうわけじゃないけど…」
美月と沙月の間に少しの緊張が走った。
「ごほん、…悪かったでござる。ただ、沙月殿の言葉遣いは本当に良くないでござるな。婦女子ならば直したほうがいいのでは?」
「は?女子とか関係ねぇだろ、なぁ田中?」
「いや、――」
「あ?」
「悪霊退散!」
田中はラクロスで培った脚力を活かして逃げた。ラクロスはかつて争い事の平和的解決のために生まれたのだ。
「ったく、あの田中、次学校で会ったらクロスで下の玉クレードリングしてやる」
「意味がわかんないけど、なんとなく下品なこと言ってるのはわかるよ…」
「美月はそういうの気にしすぎなんだよ」
「気にするよ、そりゃ」
ラクロス部の田中のぼうず頭が見えなくなるまで眺めていた二人は、スーパーまで来た本来の目的を思い出して、再びお店の入り口に向かって歩き出した。
沙月はお店の前までたどり着くと、自動ドアに駆けよっていって、おもむろに手を突き出して、言った。
「閉じろ!」
自動ドアは、沙月の意に反して颯爽と開いた。しかし、この自動ドアにも悪気はなかったのだ。ただ、生を受けた時より人間たちに求められ続けてきた使命を忠実に果たしたのみだった。沙月はこの世の悪いことは全部田中のせいだと思った。
「ふふっ、何やってるの……」
美月は、未だ自動ドアが開いたショックで立ち直れない沙月を置いて、笑いながらもさっさと脇にある買い物カゴをとって中へ入っていく。
お店の入り口近くは野菜コーナー。そのお隣さんは果物売り場だ。
「ちょっとは待ってくれよ!で、何買うんだ?」
「家にないものだよ」
「何がないんだ?」
「えーと、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、トマト、白菜、油揚げ、椎茸、あと…あ、お米と」
「まて、うちの冷蔵庫は野菜不足の愛知県民か?」
「沙月はもう南に足を向けて寝られないね」
「そうか…」
「それに、おうちの危機だからこそ、お買い物に来たんだよ」
「大事だな、お買い物…」
「あと一歩で一大事の大惨事だったよ」
それから、豆腐を持ってくるよう美月に指示された沙月が店中をさまよっているあいだに、美月が全てのお目当ての品を集めた。
沙月はといえば、美月の不意をついてちゃっかりチョコポテチとキャベツ太郎をカゴに入れた。が、ポテチに隠して入れたキャベツ太郎は美月によって即時発見され、棚に戻された。キャベツ太郎は野菜とは認められなかったようだ。チャレンジ失敗。沙月は店の隅に行って一人で泣いた。
ちょっと並んでお会計を済ませて、お店を出ると、日がずいぶんと傾いていた。地球の半分が、オレンジ色に染まっている。夕方になると、太陽が沈む西の空だけでなく、東の空もオレンジに光る。美月はそれを不思議だと思った。
二人並んで歩く。美月は、沙月の横顔の向こうに真っ赤な夕日を見つける。
「重くない?お米」
美月が沙月を気遣って言った。沙月は美月と逆側に一番重いお米を肩に担ぎ、美月側にも買い物袋をぶら下げている。美月はその他の野菜たちを担当していた。いくらバレー部だからといって、沙月だって女子だ。背格好もまだそんなに変わらない。砂の詰まった土嚢とほぼ同じのお米を家まで持って帰るのは、流石に酷と言うものだ。
だが、沙月はそこらへんの女子とは一味違うのだ。
「いやー、10キロなら案外余裕だぞ」
「そ、そう?沙月ってほんとに私とは鍛え方が違うんだね」
「ひっくしゅ!」
「…私じゃあ絶対そんなの持って歩くの無理だなあ」
「ようやくこの沙月さまの凄さがわかったのかい、美月ちゃん」
「うん。すごいね、沙月って」
「ひっくしゅ!」
「……でも、やっぱり徒歩でお米買いに行かせるなんて、あとでお母さんに文句言わないと」
「だから大丈夫だって、ほらみろこの通り!アッハッハっはっはっはっクシュん!」
「って、重さの方は確かになんともなさそうだけど、違うところが全然大丈夫そうじゃないじゃん!寒いんでしょ!やっぱり寒いんでしょ⁉」
「ば、ばっか…この程度で私が音を上げるわけ……っへぷし!」
言いながら沙月はズズーっと鼻水を吸いこんだ。音を上げるというのは、美月の記憶が正しければ厳しい状況に置かれた人が使う言葉だったはずだ。
「ねえ、これ……」
美月は、自分の首に巻いていたマフラーを半分ほどくと、寒風にさらされて紅潮した沙月の首に巻いてあげた。正面で向き合って、赤くなった鼻が今にもくっつきそうになる。
「ど、どうも……」
「うん…」
沙月が、突然のことに恥ずかしがりながらもお礼を言う。美月がそれに小さくうなずいた。
二人の距離がぐっと近くなる。どちらからともなく歩きはじめると、肩も二の腕も触れ合って、美月は腕を絡ませるように沙月の手を……手が握っている荷物の、持ち手を一緒に持ってあげる。歩幅も自然にそろっていく。
「…これはまた大胆ですなあ、美月は」
「そ、そういうのじゃないから…!…嫌なら言ってよ」
「……とてもあったかいので、ゆるす」
美月の体温が沙月を温めていく。暖かくて、それ以上はないはずなのに、じんわりと汗をかく。二人の鼓動が、一緒になって脈打つのを感じた。
夕日は世界を両側から橙色に染めあげていく。
家に着くまで、二つの夕空はずっと、美しいグラデーションを描いていた。
きょうはなんのひ
高校二年生。お昼休み。音楽室の脇の、屋上へ続く階段。
「…あら、立花さんたち、こんな所で何してらっしゃるの?」
ちょうど音楽室から出てきた大阪のおばさんみたいな女の先生が、階下から神経質そうな声を掛けてくる。堅物と女王メガネで有名な音楽の壺音先生で、畏怖と尊敬の念を込めて、みんなからはアルティメット・襟巻きメガネと呼ばれている。
「あっ、襟巻きメガネ先生じゃん!今から美月と昼飯なんだよ」
沙月が手を振って答える。往々にして、バカには怖いという感情がない。
「誰が襟巻きメガネですか!ふざけてると次の授業でフニクリ・フニクラを独唱させますよ!」
「あっはっは、なにそれ……あれ、なんで怒ってるんだ?」
「あなたのふざけた呼び方のせいでしょうが!…美月さん、あなたはとてもまともな人間なんですから、沙月さんを教育して差し上げなさい」
「はぁ……善処します」
「沙月さんったら、ここ最近の授業なんて特にひどくて、オーラリーの合唱中に立ったまま寝ていらしたのですよ!」
「オーラリーって小学校で歌う歌なんじゃ……」
「いやぁ、オーラリーってなんかラリホーマみたいでさ、ついね」
「つい、じゃありませんよ!とにかく、夜はぐっすり寝て、授業に備えなさい。いいこと?」
「はーい、メガネせんせー!」
アルティメット・襟巻きメガネ先生は、これ以上は無駄と悟ったのか、沙月の笑顔に毒気を抜かれたような顔で「まったく…」と呟きながら去っていった。
後には、二人だけの空間が残された。
***
「さて、今日は何の日でしょう?」
二人きりで階段に座り込んでお弁当を広げていると、沙月が美月に満面の笑みで尋ねてきた。
「何の日って、それはもちろん――」
「せいかーい!今日は聖バレンタインが死んだ日でしたー!」
「言い方!」
沙月が横の学校指定のカバンからお菓子の箱を取り出す。
「というか、そもそも今日はバレンタインじゃないでしょ。今日は――」
「わかってるって、だからちゃんとこれを持ってきたんじゃないか」
持っているお菓子の箱をずいっと美月の前に出す。美月とも沙月とも、縁もゆかりもない、ただのトッポだった。
「…沙月、今日は何の日か言ってみて?」
「ポッキーの日!」
「違う!」
「そんでもって、エイプリルフールなのではないかという噂もある」
「そのうわさ自体が嘘じゃない!」
もはや何からつっこめばいいのかわからないといった風に、美月は目をまわす。だがしかし、何を差し置いても美月の中で譲ってはいけないものがあった。
「私、ポッキーはポッキー派って言ったよね⁉」
「みとめませーん!トッポの方がおいしいですー!」
「ポッキーはポッキー以外ポッキーじゃないの!だってポッキーっていう名前なんだから!この邪道め!」
「ばか、ポッキーなんて表面にチョコがこびりついてるだけだろうが!その点、トッポは中にチョコがぎっしり詰まってるだろ!結局、人間とポッキーは中身が大事なんだよ」
「本当に中身のすばらしいものは、外面にまでその素晴らしさがにじみ出るものよ!ポッキーを見てみなさい!こんなに見た目の美しいお菓子はポッキーを差し置いて他に存在しないの!そっちこそ、中のプリッツを蔑ろにしてると天罰が下るんだから!プリッツから」
「な、なにぃ…!」
顔を突き合わして、トッポ称賛の総力戦も辞さない構えだった沙月だが、はっと我に返ると、こんなことを始めた当初の目的を思い出す。「私がしたいのはこれじゃないだろ……」と小さく呟きながら、カバンの中からもう一つの箱を取り出すと、いまだ怒れる美月に差し出した。
「まあ、そういうと思って、こいつも持ってきていたのだ」
「…これ、小枝チョコだ」
小枝チョコとはつまり、ポッキーとトッポを足して二で割り、長さとしてもポッキーを二で割ったくらいの、短いお菓子だ。
「折衷案として最適だろ?」
「どの基準でものを言ってるのかわからないけど、まあいいや」
沙月は箱を開けて小袋から一本取りだすと、それで美月を指して言い放った。
「美月、これでポッキーゲームをしよう!」
「いやだ」
「…あれ、美月?」
「いやです」
「みぃつきぃぃ!」
「いやですぅ!」
…み、美月のジト目はかわいいなぁ………。
しかし、これくらいでは沙月の心は折れなかった!この程度のことは、沙月には想定済みだったのだ!
足りない頭を使って、沙月なりに、今日この日のために練りに練ってきた計画があるのだ。
「冗談だって、ほら、これあげるから」
つまんでいた小枝を美月の口まで運んであげる。小枝の半分くらいが、美月のきれいな紅色の唇にふくまれる。途端、美月の顔がほころんだ。チョコの甘さが口に広がったのかもしれない。
ここで沙月の切り札が炸裂した。
「くらえ!トリック・オア・トリート!」
「ふぇえ⁉」(えぇ⁉)
沙月ががしっと美月の両肩をつかむ。
「ふぉんふぉはふぁほひん⁉ふぉっひーへふふぁふぉうひふぁふぉ⁉」(今度はハロウィン⁉ポッキーゲームはどうしたの⁉)
「うんうん。どうやら、ようやくこの私の周到な作戦に気が付いたようだね」
そう、もし美月が『トリート』を選ぶならば、今美月が咥えているポッキーを沙月に差し出すということになり両者合意の上でポッキーゲームが成立し、逆にトリートを拒んで『トリック』を選ぶならば、沙月が美月の咥えたポッキーを食べるといういたずらをしても良いことになり、こちらでもやはりポッキーゲームが成立してしまうという、悪魔的に狡猾な作戦なのである!
「これこそが、私が寝ずの番で考え出した、名付けて『トリック・アンド・トリート』作戦!」
「……!」
驚いたような美月の顔のすぐ近くで、沙月のドヤ顔がきまる。
徐々に沙月の顔が近づいてきて、美月はじわじわと壁際に追い詰められていく。そのまま背中が壁のひんやりとした感触を覚えた。
危機迫る状況の中で、その実、美月の頭の中はどう回避しようかなんてこれっぽっちも考えていなかった。あるのは、沙月の努力に応えてあげたいという気持ちと、今日は特別な日なんだから、という自分への言い訳の言葉と、やられっぱなしじゃ終わりたくないという、ほんの少しのいたずら心だけ…。
沙月の繊細に揺れる唇が小枝にとどく直前で、美月は小枝を口の中に引っ込めて、素早く咀嚼した。
「ぁ……」
沙月の泣きそうな声が漏れるのも束の間。
美月は、沙月の顔に手を伸ばして、唇に自分のそれを重ねた。
「……!」
こどもの頃とは違う。その意味をふたりとも理解していて、どんな食べ物よりも甘くて、ちゃんとチョコの味がするキス。
甘い匂いに誘われて、しばらくふたりでチョコを味わい続ける。舐めたり、受け入れたり、飲み込んだり…。
やがて、どちらからともなく唇が離れた。
「………」
頬は緊張と興奮でこれまでにないくらい上気して赤くなり、チョコレートのついた唇はきれいな紅色に茶色が混じっていて、熱くて甘い吐息が漏れていた。舌で唇を舐めると、まだほのかにチョコの味がする。
「美月…」
「く、クリスマスプレゼント…だから!」
口を開きかけた沙月に重ねるようにして、美月が言う。そんな美月を、沙月はがっしりと包み込んだ。しばらくして、沙月も、背中にぎこちない手が回されるのを感じた。
耳元でささやいた。
「美月、誕生日おめでとう」
「…お誕生日おめでとう、沙月」
しあわせのかたち
「ただいま~」
3LDKマンションの一室。鍵を開けて中に入り、玄関で靴を脱いでいると、美月が奥のドアからひょっこりと顔を出した。
「おかえりー」
「みぃつきぃいいいい!」
途端に、スーツ姿の沙月が、靴をそろえるのもほどほどにして美月の胸に飛び込む。美月は落ち着いた私服の上に薄ピンクのエプロンをつけていた。大学から帰ってすぐに、夕飯の準備を始めてくれたのかもしれない。
「はぁぁあ~~~、癒されるぅ~」
「うわっ、くさっ!沙月、もしかしてまたたばこ吸った?」
沙月が美月の胸に顔を擦り付けていると、沙月の幸せそうな雰囲気に反して美月が露骨に顔をしかめた。
「いやぁ、係長が話のわかるやつでさぁ、今日くらいどうだって一本くれたんだよね」
「今日だけは断ってほしかったなぁ、もう」
「ごめんごめん。もう一生禁煙するから……お、なんかいいにおいが」
沙月が美月の肩越しにダイニングを覗くと、いつもより明らかに豪勢な料理たちが、食卓に所狭しと並べられていた。
「うん。今日はなんだか落ち着かなくて、たくさん作っちゃった…。それに、お風呂も沸かしておいたし、べ、ベッドも干したてのシーツをととのえてあって――」
「おお!このにおいはハンバーグか!しかもナポリタンにグラタンまで!さすが美月、私の好きなものはすべてお見通しというわけか…!」
「…すぐご飯にするから、着替えてきて。あとスーツはここで脱いでいって」
少しばかり面白くなさそうな顔をした美月が、沙月のジャケットに手をかけた。
「なんだ、今日は特別に脱がしてくれるの?」
「たばこのにおいが染みついてるから洗濯しようと思ってるだけ」
「そ、そうですか…」
沙月が無念そうな顔をしながら、自分の部屋に戻っていく。その背中が消えるのを待ってから、美月は手の中にあるジャケットのにおいを嗅いでみた。
「沙月のにおいだ……」
たばこのにおいも微かに残ってはいたが、わざわざ洗濯するほどでもない。
「…焦る必要ないよね」
これから、時間はきっといくらでもある。
美月は、ダイニングに戻って、食事の準備をすることにした。
***
二人だけの晩餐会を終えて、先に風呂にも入り終わった沙月は、リビングでテレビの前のソファーに陣取って晩酌を始めていた。テレビからは場違いとも感じられる漫才番組の笑い声が流れている。沙月はそれを、心ここにあらずといった感じにぼんやりと眺めていた。
「沙月、あんまり飲みすぎちゃだめだからね」
風呂からあがりたての美月が、リビングに入って来るなり、髪の毛をバスタオルで拭いながら沙月を咎めた。シンプルな柄の寝間着で身を包んでいるが、頬はまだほんのりと朱色だ。
「大丈夫、これ一本にするつもり」
そう言って持っていた缶ビールをひらひらさせた。ちびちび飲んでいたつもりだったが、もう半分も残っていないようだった。
「髪を乾かしたら、ここに来なさい」
沙月がソファーの隣をポンポンとたたく。ときどき変な口調になるのは昔からかわらない。
美月が髪の毛を乾かし終えてから沙月の隣に腰かけると、ソファーがぎしっと揺れた。手に持っていた缶ビールのプルタブを引くと、プシュッと小気味のいい音がでる。
美月はそれにゆっくりと口をつけていく。
「晩酌、付き合ってくれるの」
「うん、今日はね。なんだか私も飲みたい気分」
「そりゃいいな」
しばらく、無言でテレビを眺めつづける。缶の中のお酒だけが少しずつ減っていく。なんの感慨もなしに見られるのはお笑い番組も望むところではないだろう。
「…沙月、今日お仕事で何かあったの?少し元気ないみたいだけど」
普段なら、特に面白くない番組でも腹を抱えて笑い転げているところだ。いったい何がツボなのかは美月ですらわかりかねるところだが、とにかくいつでも元気で笑顔なのが沙月の良い所の一つでもある。
「いやぁ、今日すげー調子よくてさ、いつもの倍はたらいたから、今その反動でめっちゃ疲れてる。お仕事はむしろ楽しかった。こんな日はもう二度とこないだろうな」
沙月がニィっと笑う。疲れこそ残るものの、一つの陰りもないいつもの沙月の笑顔だ。
「そういうこと……はしゃいで帰ってきてご飯食べたら眠くなるって、沙月のそういうこどもっぽい所、変わらないね」
「だが、酒を嗜むこどもはいないだろ?」
「時間の流れと精神の成長は別物だと思うなあ」
「あと」
「?…」
「こーんな幸せなこどももいないだろうな!」
沙月は、ソファのバネを使って、跳びはねるように背面から美月の太ももにダイブした。後頭部には温かい肉の感触が、目前には美月の胸とその間にかわいい顔がのぞいている。美月が沙月のサラサラの髪を手で梳いてあげると、沙月の頬が緩んだ。
「極楽だなぁ」
「私は美月のお母さんですか」
「お母さん…というか、もっとふさわしい呼び方がある」
「……明日からね」
「……明日…。………ほんとはさ、少し緊張してたんだよね」
「……うん。私も、最近ずっとそわそわしちゃって」
「でも、美月といたら、なんか落ち着いてきた」
「私も」
目と目が、しっかりと交わりあっていた。互いがお互いの存在や温もりを感じ取って、胸がむずがゆいもので満たされていく。血が巡るのがこそばゆく感じるひととき。
「それにしても」
「うん?」
突如として、沙月が眼前に広がるマシュマロの山を下から押し上げ始める。
「いったいどこでこれ程までの差がついてしまったんだ?私は何を間違えたというのか」
美月が慌てて胸をおさえる。
「ちょっと、なにすんの⁉」
「だってさー、私たち二卵性とは言え双子だし、ほぼ同じ環境で育ってきたはずだろ?それなのにこんな差が出るのはおかしくないか?火山で例えるとすれば、美月は雲仙普賢岳、私は三原山だぞ」
「なんで火山…?……大丈夫、沙月も桜島くらいあるよ」
「それって励まされてるのか?わからん」
「火山で例えるからだよ…。ほら、見て」
美月がスマホでそれぞれの標高を調べてくれた。
雲仙普賢岳が1,483mで、桜島は…1,117m。
「やっぱり私の方が小さいんじゃん!」
がばっと美月のお腹に抱き着く。風呂上がりのいいにおいがする。
「僅差だと思うけどなぁ」
「まあ気にしてないからいいけど」
「じゃあそんなに騒がないでよ!……それに、私の方が大きいのって、沙月のせいかもしれないし………」
ぼそっと美月が呟いた言葉を、沙月は聞き逃さなかった。
「その心は?」
「ほら、私の方がたくさん揉まれてるから……というか、いつも揉んでくれるのは沙月の方だし……」
「え」
「さ、沙月が私のおっぱいたくさん揉むから、大きくなるんじゃないかな!」
二人の間に束の間の静寂が訪れる。テレビから「アッハッハッハ!」という能天気な笑い声が響いた。
「このっ‼」
沙月は跳ね起きて美月のまだ大半が残る缶ビールを奪い取ると、それを一気にあおった。
「ぷはァぁああ!」
「ちょっと、一気飲みは駄目だってあれほど…」
「さぁもう寝るかー!明日は朝早いし」
「………そ、そうだね……。夜更かしが一番駄目だって言うもんね」
妙な恥ずかしさを吹き飛ばすために、少し強引に話を切る。美月も、さすがにお説教を続ける気にはならなかった。
テレビを消して寝る準備をすると、向かうのは同じ部屋の、同じベッドだ。新居に移るときに一緒に買った、思い出も多きダブルベッド。
いつもより早い就寝。明かりを消しても、なかなか眠りにつけなくて、隣で眠る大切な人の息遣いが、寝返りを打つ音が、明日への期待と緊張が、すべて温もりを通じて伝わってくる。
「…親への手紙、書いた?」
「うん。結構前に」
「私も。…なんか、変な感じだな。今までも家族だったけど、改めて家族になるのって」
「…私たちのは、きっと、家族になる以上の、特別なものだよ」
「なんだそれ」
「わかんない……けど、つまり、幸せってことかな」
「……幸せか。たしかにそうかも」
そうだ。式を挙げるのは、べつに家族になるためじゃない。戸籍上の家族じゃなくて、心の上で、大切にすべき人を確認するという意味で。結婚式とは、互いの幸せを誓い合うために挙げるものなのだ。
そんな気がした。
私たちは明日、結婚する。
***
翌日。
荘厳なチャペルのドアを開けると、今まで知り合ってきた大勢の顔に、あふれるほどの拍手で迎えられた。
普通よりも大きく幅のとられたバージンロードの上を、美月は父親に、沙月は母親にエスコートされて一歩ずつゆっくりと前進していく。半ばまで来ると、父と母は二人の手が一つになるように導いてくれた。
「お父さん、お母さん、いままで育ててくれて、ありがとう」
「これからも、仲良くしようね」
今度は美月と沙月が、二人で手を取り合って進んでいく。
これまでの美月との、あるいは沙月との思い出が、走馬灯のようにまぶたの裏に浮かんでは、消えることなく積み重なっていった。プリン一つでけんかして、どさくさで初チューをしたあの日も。嫌々ぶって、本当は少し心が浮つきながら、一緒に買い物に行ったあの日も。学校の隅で、甘くて焦げるような熱いキスをした誕生日も。
何気ない日が、何でもない日々が、あなたといるだけでかけがえのない日々になった。宝物の日々が重なって、今日という日にたどり着いた。
私たちは、忘れ物がないように、一つずつ宝箱から取り出していく。大切に取り出して磨いて、また戻すのを繰り返す。
何度でも。一緒に。
「あ、ラクロス部の田中君たち、招待したんだ」
「お、アルティメット・なんとかメガネ先生もいる」
「マンションの大家さんは……そういえば二人で招待状渡しに行ったっけ」
招待状は、サプライズの意味も込めて、二人がそれぞれお互いに内緒で出したものもある。もしかしたら、二枚とも受け取った人もいるかもしれない。
拍手の裏で、ラクロス部の田中が何かしらこちらに叫んでいるのがわかるが、内容までは届いてこない。
「田中のやつ、悪口言ってたら後でシメよう」
「さすがに言ってないと思うけどな…」
ラクロス部の田中とは、中学生のころ沙月に下の玉をクロスでクレードリングされた暗黒の過去を持ちつつも、なお沙月たちと仲良くしているという、心も体も耐久力の強いぼうず頭のことである。
やがて祭壇にたどり着くと、讃美歌斉唱の後に牧師が聖書の朗読を始めた。そしてその後。
「永遠の愛を誓いますか」
牧師が二人に問いかける。もっとも、訊くまでもないことで、神にでも仏にでも誓ってやるくらいの気持ちで。でも、やっぱり一番大切なのは、お互いに、お互いのために約束をするということだから。声に出して言う。
「誓います」
「誓います」
結婚指輪を交換する。沙月から美月へ。美月から沙月へ。結婚という儀式が、二つの輪の形になって、二人を繋ぎとめる。
互いの顔のベールを上げて、唇と唇を重ね合わせる。恥ずかしさも、やがて昇華して祝福になる。キスは言葉の封印だ。つまりは言葉のない契り結び。まるで体の芯が一つになったような、そんな錯覚。
今日という日がまた、記念日になる。明日も、明後日も、その後もずっと一生。あなたの隣でつくる道を、もし叶うなら永遠に歩み続けたい。
この願いが、いま目の前にいるあなたに届くといい。
誓いのキスのあと、顔を見合わせて照れくさそうに笑いあって。
私たちは今日、姉妹を卒業して、夫婦になった。
姉妹記念日 加茂井水月 @kamo30
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