短いやつら

本喜多 券

第1話 黒い蝉

じっとその一点を見つめている。何かを考えながら、ぼーっとタバコを吹かしてその黒い一点を見つめている。その黒い点は石庭の中央付近にあった。


 高野山の夏の夜は涼しい。夜になれば心地よい風も吹く。そしてここの月は大きくて眩しい。それらをいっぺんに得ることができるのが石庭前の長椅子で、気が向いたらよく出向いた。


 その石庭には模様が描かれている。サンスクリットの文字で阿弥陀如来を指すらしいがよくわからない。よくお坊さんが草抜きしたり虫の死骸を取り除いたりするのをみるので、よほど大事にその庭は管理されているのだろうと思う。


 またその石庭は夜になると月光を受けてほのかに浮かび上がる。ところどころの砂つぶが瞬く星のように光る。だから、夜には小さな宇宙を眼前に見るようで、その静寂を観るようで、とにかくタバコや酒をするには贅沢すぎる気にさせるような庭だった。


 これはそんなある日の夜。石庭前でのことなのだが、奇妙な音がする。初めはよくわからなかったけど、だんだんとその音が庭の方からするのに気がつく。そして黒い点が小さく動いた。音は同時にそこから鳴った。それは蝉だった。

 

 それが蝉だと分かったのは、その奇妙な音が昼間よく聴く蝉の羽音と同じ感じであるから。奇妙なのはこんな夜中にそれを聴いたことと、石庭の上で羽音だけを鳴らしているということだ。月光に照らされた石庭にただ一つ沈む、一点の黒の正体は蝉であった。

 

 寺院内は風が揺する草木の音の他には何も聞こえない。その静けさを刻む蝉の羽音はとにかく落ち着かなかった。黒い点が動いては止まり、動いては止まる。俺はあの黒い蝉は死にかけているのだと思った。


 蝉の一生はあっという間だということを聞く。地下で7年だかの歳月を過ごし、地上に出てからは1週間の命と。もしあの黒い蝉がそのような生涯を過ごしたのなら、今目の前で、石庭の上でもがいているのがその臨終の姿だ。そう思った。


 その黒い蝉の死力を振り絞ったあがきを、俺はのんきにタバコを吹かしながら眺めている。それ以外に何ができようか。俺はあの蝉を救えない。救えたとしても救うだろうか。自分はあの黒い蝉ではない。あの蝉の友達でもなんでもない。


 ただ、一つ言える。自分はあの黒い蝉に懐かしさのような親しみを感じている。たった一人で死に立ち向かう黒い蝉の姿。一人ぼっちで淋しい最期。静寂な夜にて。夜空へと、月光の当たる方に向かわんとする。


 翌朝、蝉は消えていた。

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