第2話 7月のお話

「えっ? 事故?」


 電話に出た高宮先輩の声で、スモールワールドに興じていたミス研の部室の空気が、一気に張り詰めました。

 7月のまだ日が高い、夕方の5時ごろでした。


「え、で、何、大丈夫なの?…ああ、ああ、うん――」


 ボードゲームをしていたのは私、市辺夕生と3年の高宮先輩、それに同級生の武内陵たけうちりょうちゃんと、2年の和泉星矢いずみせいや先輩の四人でした。3人とも、ゲームを中断して高宮に注目します。


「ああ、そう。うん……今? 部室だけど、それが? ……あぁー、そうかぁ。ごめん、俺この後バイトだわ。えーと、じゃあ、和泉がいるから、ちょっと変わろうか」


 俺? という感じで和泉先輩が自分を指さします。


「誰すか?」

「佐屋から」

「事故ってのは?」

「まあ聞けばわかるよ」

「はあ……」


 高宮先輩がスマホを差し出します。


「もしもし、変わりました、和泉です。事故って聞きましたけど、大丈夫すか?」


「電話の相手、佐屋先輩なんですか?」


 和泉先輩が電話している間に、高宮先輩に事情を聴きます。


「うん。なんか、ツーリングに行ってたらしいんだけど、事故に遭ったんだそうな」

「無事なんですか?」

「らしいよ。怪我はしたみたいだけど、大したことはないって。声も元気そうだったし」

「よかったあ」


 横で聞いていた陵ちゃんが、ほっと胸をなでおろしました。


「電話の用事はそれだけなんですか?」

「ああ、怪我は大したことないけど、バイクがおシャカになったから、迎えに来てほしいんだって」

 和泉先輩は実家暮らしで、確かGWにミス研でバーベキューをしたときに、大きいワゴン車の運転を買って出てくれました。それで白羽の矢が立ったようです。


「迎えって、どこまで行ってんですか?」

「はあ、はあ。はいはい、今日は大丈夫です。いいっすよ。で、どこに行けばいいんすか?え、千葉ぁ?」


 裏返った声を上げた和泉先輩に、私と陵ちゃんが振り向きました。高宮先輩は、視線だけを和泉先輩に向けます。


「うーん、千葉っすかあ。行けないことはないっすね、まあ。いいっすよ、行きます。いえいえ、そんな。こういうのはお互い様っすから。え……? はあ、わかりました。それじゃあ、また連絡します」


 どうやら、和泉先輩が迎えに行くことになったようです。和泉先輩とはそんなに多く話したことはありませんが、ほぼ二つ返事で引き受けるあたり、とてもいい人のようです。

 和泉先輩は高宮先輩にスマホを渡すと、


「聞いてた?」


 無言で3人が頷きます。


「まあ、そーいうわけで、事故った佐屋さんを千葉まで迎えに行くことになったから、帰ります。片付けお願いしてもいいっすか?」

「はいはい。いってらっしゃい」

「お気をつけて」


 高宮先輩と私が言いと、和泉先輩は荷物をまとめて立ち上がりました。


「それじゃ」

「はいはい!」


 和泉先輩が扉を開けようとしたところで、陵ちゃんが勢いよく手を上げました。


「それ、ウチらもついてっていいですか?」


 発せられたのは、意外な提案でした。


「ついてくって?」

「ドライブですよドライブ。千葉まで。佐屋さん元気そうらしいし、拾ったらどっかでうまいもんでも食べてくか、温泉でも行きましょうや」

「ああ、なるほど……。確かに、いいかも」


 陵ちゃんの提案に最初は戸惑ったようですが、和泉先輩は満更でもなさそうです。


「まあ俺的には、賑やかな方がいいし」

「よっしゃ、ほな早速行きましょー」


 そう言って陵ちゃんは、私の手を引いて立ち上がろうとしました。


「ちょ、ちょっと」


「ん?」

「まだ私、何も言ってないよ」

「ちゅーことは、行くってことやろ?」

「いやいや」

「絶対おもろいって。こういう行き当たりばったりでどっか出かけるの、大学生~って感じで」

「そうかなあ」

「そうはどうだろう」

 高宮先輩が苦笑しています。どうも大学生に対するイメージが、私と陵ちゃんで大きな隔たりがあるようです。


「行かへんの?」

「だって、来週から期末テストだよ」


 そう、通常の授業があるのは今週の金曜、つまり今日までで、来週からは毎日テストがあるのです。しかも私は要領がよくわからないまま登録してしまったため、20コマ近くも講義があります、もう忙しいこといったらありません。


「なんでそんなにとったん?」

「時間割がスカスカだと、なんか不安で」

「まあ大丈夫やって。夕生は真面目に出席してるし」

「そりゃ、出席はするよ」

「佐屋に聞かせてやりたいなあ」

「効き目なさそうっすけどね」

 しみじみと高宮先輩が言って、和泉先輩が返しました。私は、ごく普通のことを言ったつもりなのですが。


「むしろあんだけ講義とってるんやから、1つや2つ落としてもしゃあないって」

「だからって勉強しないのはなあ」

「まあ、テストは大丈夫だと思うよ」


 陵ちゃんに助け舟を出したのは、高宮先輩でした。


「1年生がとる授業なんて、真面目に受けてればそうそう落とすのなんてないよ。運が悪くなければ」

「でも憲法とか、過去問見ましたけど難しそうですよ」

「あれはまあ、授業はちょっとアレだけど、テストは大丈夫だから。いやテストもなかなかだけど、頑張って何か書けば、単位はくれるよ」

 同じ法学部で成績優秀な高宮先輩にそう言われて、少しほっとしました。それはそれとして、


「だいたい、お二人は大丈夫なんですか? 和泉先輩が行くのは仕方ないですけど」

「まあ、なんとかなるよ」

「なんとかなるんちゃう?」


 なんということでしょう。2年の和泉先輩はともかく、大学に入って初めて期末試験を受ける陵ちゃんまでこんなに楽観的でいられるなんて。関西の人ってみんなこうなんでしょうか。それとも私が心配性なのでしょうか。


「なあなあ行こうやあ。人数多い方が楽しいって」

「まあ、無理して来ることはないよ」

「あとで勉強するんなら付き合うから。なっ?」

「うぅーん……」

 昔から、頼まれると断れないというか、押しに弱いというか。

 いやはや……。



   ◇



 まずは和泉先輩の家に車を取りに、3人で電車で川崎まで移動しました。京王線で稲田堤まで行き、そこから南武線に乗り換えて30分ほどかかりました。


 これが、なかなかに疲れました。乗り換えではそこそこ歩きましたし、電車では立ちっぱなしで、毎日これをこなさなければならないと思うと、ちょっと気が重くなります。高校のときは自転車で片道30分の道を通っていましたが、それとはまた違った辛さがあります。


「大学の近くで一人暮らししようとは思わなかったんですか?」

 道すがら、私は和泉先輩に聞いてみました。

「まあ金もかかるし、読書とか勉強とか、意外と電車の中だとはかどるよ。家とか大学だと、どうもだらけちゃうし」

「確かに」

 陵ちゃんは大きく頷きます。家ではともかく、大学でなぜだらけてしまうのか、私にはよくわかりませんが。


 和泉先輩の家は、駅から歩いてすぐの高層マンションでした。

「うわあ。金持ちっぽい」

「なんじゃそりゃ」

 陵ちゃんの感想を和泉先輩は一蹴し、車のキーを取ってくると言ってにエレベーターに乗り込みました。私たちは1階のロビーでそれを待ちます。

「実際どうなの?このマンション」

「何が?」

「さっき、高いって」

「さあ? ノリで言っただけやし」

「なあんだ」

「安くはないんちゃう? 駅から近いし」

「そりゃそうでしょ」

 なんてだらだらと喋っていたら、やがて和泉先輩が降りてきました。

「なんですかそれ?」


 和泉先輩の右手を指して、陵ちゃんが言いました。


「傘だけど」

「そんなん見ればわかりますよ」

「いや、佐屋さんが持ってきてって言ってたから。なるべく長いやつって」

「ほんまですか?」

「うん……聞き間違いでなければ」

 和泉先輩も自信なさげに言います。確かにこれから車で迎えに行くのに、変な話です。


「向こうは雨なんでしょうか」

「さあ。まあ行けばわかるよ。ほら行こう」


 和泉先輩に促され、私たちもエレベーターに乗り、地下の駐車場に行きました。そこで和泉先輩の車に乗り込み、私たちは一路千葉を目指しました。

 そのはずでした。





「いい景色やね~」

「そうだね……」


 陵ちゃんの言う通り、目の前に広がる景色はとても素敵でした。


 黄昏時の東京湾は、夕日を反射して輝いています。空にはうっすら月も見えて、オレンジ色と薄暗い空とのコントラストが、ちょっと幻想的ですらあります。


「来てよかったなあ」

「そうかな?」

「なんでえ。この眺めは映えるで~」

 とか言いつつ、陵ちゃんは写真なんか撮ってないのですが。これもいわゆる、ノリというやつなのでしょう。


 それはさておき、


「いや、こんなにのんびりしてて、いいのかなって」


 私たちが今いるのは、東京湾に浮かぶ海ほたるパーキングエリアの展望デッキです。神奈川と千葉を結ぶアクアラインを走っている途中、和泉先輩がお腹がすいた、一度行ってみたかったんだと言い出して寄っていくことになりました。時刻は7時を回っていて、時間的にはちょうどいい頃合いです。


 迎えを待っている佐屋先輩を差し置いている点を、除いてですが……。


 ともあれ、目当ての回転寿司のお店の順番待ちをしている間、私と陵ちゃんの2人でこうして展望デッキにやって来たわけです。


「大丈夫やって。迎えに来てもらってる手前で文句言うほど理不尽な人やないって、佐屋センパイは」

「陵ちゃんって、そんなに佐屋先輩と仲良かったっけ?」

「んー、普通ちゃう?」

「適当だなあ」

「でも、怒ってるとこ見たことないで」

「それはそうだけど」


 まだ知り合って3ヶ月しか経っていませんが。


「後ろめたいって、こういう感じのを言うんだね」

「ほならなんで反対せんかったん?」

「いや、いいのかなあとは思ったんだけど、運転してる人が言いだしたことだし……」


 あははと笑って、陵ちゃんはデッキの出入口の方へ軽い足取りで歩き出しました。遅れて私も後をついていきます。


「まあ来てもたんはしゃあないやん。楽しまな損やで損。佐屋センパイならこのくらいの役得、大目に見てくれるって」

「車を運転してるのは和泉先輩で、私たちは座ってるだけだけどね」


 確かに、と言って陵ちゃんはまた笑いました。


「まあまあ。もしなんか言われたらなんとかしたるから」

「ほんとぉ?」

「ほんとほんと」


 明るく陵ちゃんは肯定しました。そこまで言うのなら、もしものときは任せましょう。

 それはそれとして、とりあえず、今はお寿司を味わおうと思います。でないと、陵ちゃんの言うところの損というものです。



   ◇



 回転寿司店に戻ると、待合スペースでスマホを見ていた和泉先輩がこちらに気づきました。


「雨、降ってないみたい」

「何がです?」

 陵ちゃんが聞きました。

「傘持てきたじゃん」

「そういやそうでしたね」

「まあどうでもいいけどね」


 それからすぐに席に案内されて、私たちは海の幸を堪能しました。それはそれでよかったのですが、和泉先輩がさすが運動部という感じの食べっぷりで、しかも回っているネタは食べないという妙なこだわりを発揮したため、店を出るまでに思いの外時間がかかりました。おまけに部室に持っていくお土産を選んだり、アイスを食べてのんびりしていたら、パーキングエリアを出発するころには9時を過ぎてしまいました。


「いや~満喫しましたねえ」

「うん。思いのほかね」

 満足げな陵ちゃんに対して、和泉先輩はさすがに少しばつが悪そうですが、どちらもそんなには気にしてなさそうです。


「夕生はどうやった?」

「いいところだったね。楽しかったよ。アイスも美味しかったし」


 問題なのは、佐屋先輩の元への到着が大幅に遅れていることなのですが。


「行ってよかったやろ?」

「提案したのは和泉先輩だけどね」

「そやったっけ。じゃあ佐屋先輩に怒られたら和泉先輩のせいですね」

「えぇ~、ひどくない?」

「ハンドル握ってるのは先輩やないですか。あたしらは賛成も反対もしませんでしたし」

「そういえば、そうだったっけ。まいったなあ」


 言葉とは裏腹に和泉先輩は笑っています。


 車内はまったりとした空気が流れていますが、日の落ちたアクアラインは道路こそ明るいものの、海はもう真っ黒です。車もまばらで、これが青空の下だったらさぞ気持ちいいドライブだったでしょう。


「ここから病院までは、どれくらいなんですか?」

「1時間かかんないくらいかな。10時までには着けるよ」

「ほな温泉は無理ですかね。ざんねん」

 

どんと陵ちゃんが、大きく倒した助手席のシートにもたれる、というか寝っ転がりました。


「それにしても、和泉先輩っていい人ですよね」

「なんだ突然」

「こんな時間に車出してアッシーなんて、なかなかできんくないですか?」

「う~ん。まあ、頼まれたし」

「来週はテストですし」

「それを言ったら、用もないのについてきてる君らもだけど」

「ウチはまあ、酔狂っちゅうかネタっちゅうか、アレですけど」


 ちらりと陵ちゃんがこちらを見て、すぐ視線を和泉先輩に戻しました。


「でも、怪我は大したことないんでしょう?」

「そうらしいけど」

「なら電車で帰ってもらってもよかったんちゃいます?」


 はっとした顔の和泉先輩が、バックミラー越しに見えました。


「言われてみれば……」

「そういうとこが、いい人ってことですよ」


 ほどなくするとアクアラインも終わり、車は千葉県に入りました。周りの景色も真っ黒な海から明るい街並に変わり、遠くには山らしき影も見えます。


 しばらくエンジン音だけの静かなドライブでしたが、ふと気になることを思いついて私は口を開きました。


「なんで電車じゃなくて車なんでしょう?」

「というと?」


 聞き返したのは和泉先輩でした。


「だって、普通に電車で帰った方が早くないですか?もう――」


 車の時計はもうすぐ10時になろうとしていました。


「こんな時間ですし」

「寄り道せんかったら、もうちょっと早かったでしょうけど」

「それを言わないでくれ」


 和泉先輩が陵ちゃんの横槍を制すと、


「まあでも、ノンストップで行っても、それなりに時間はかかったし。確かに、帰るまでの時間を考えたら、電車の方が圧倒的に早いわな」

「金がないんとちゃいます?」

「いや、あの人わりと金持ってるっていうか、カードも使えるし、電車代くらい何とでもなるんじゃない?」

「金持ってるって、どこ情報ですかそれ」

「なんか、割のいいバイトしてるって前に聞いたよ。バイクも一括で買ってたし。あとまあ、飯行くといつも奢ってもらってるから」

「そんな恩人を迎えに行くのに、寄り道するんですね」

「それはもういいから」


 それからしばらく3人で理由を考えましたが、


「まあ行けばわかるよ」


 という和泉先輩の一言で締めくくられました。


 ナビによれば、目的地まであと10分です。



   ◇



 時間を考えれば当然のことですが、病院の駐車場はガラガラでした。とりあえず、適当なところに車を停めて3人で建物の方へ歩いたのですが、正面玄関はすでに施錠されており、どこから入ればいいのかわかりません。スマホで夜間でもつながる番号を調べて電話して、しばらく待つと、中から年配の看護婦さんが出てきました。和泉先輩が改めて用件を伝えると、


「はいはいどうも、お疲れ様です。中でお待ちください」

 と明るく言って戻っていきました。


「大変やなあ」

 感心した様子で陵ちゃんが見送っています。

「何が?」

「こんな時間でも客さんは来るし、それでもああやって労ってくれるんやで。天使でないとやってられんわ」

「そう」

「なんか冷たない?」

「いや、眠くって……」


 うとうとしながらしばらく待っていると、


「おお、みんなありがとー」


 のんきな声とともに、廊下の陰から佐屋先輩は姿を現しました。それを見た私たちは、揃って息を呑みました。


 佐屋先輩は車椅子に乗って、看護婦さんに押してもらっていました。右の膝と足にそれぞれ厚く包帯が巻かれていて、さらにたくさん腕にも細かく擦り傷の跡があり、見ているだけで痛々しい姿でした。


「悪いね、こんな時間に。遠かったでしょ」


 その姿からは想像もできないのほほんとした声で、佐屋先輩は私たちを迎えました。


「いや……」


 圧倒されながらも、かろうじで和泉先輩が応じました。陵ちゃんはまだ目を丸くしてします。私も眠気が吹き飛びました。


「あの……大したことないって、言ってませんでした?」

「まあ、骨は折れてないし。杖があれば歩けるよ」

「は、はあ……。じゃあ、その包帯は?」

 和泉先輩が指差します。

「擦過傷っていって、まあ要するに、擦り傷のヤバい版みたいな感じ」

「痛くないんすか?」

「まあ痛いけど、我慢できなくはない」


 佐屋先輩は淡々と、なんでもないことのように説明しました。その口調と姿にギャップがありすぎて、反応に困ります。もっと心配したほうがいいのでしょうか。いやきっといいんでしょうけど。


「傘は?持ってきてない?」

「あ、ええ。車にありますけど、そういえば、なんでですか?」

「杖代わりに使おうと思って」

「ああ……」


 和泉先輩は頭をかいて、


「いや、こっちまで車持ってきます。玄関で直接乗りましょう。いいですよね」

 看護婦さんが頷くと、和泉先輩が踵を返しました。

「あ、ちょっと」

「はい?」

 

佐屋先輩は膝の上にのせていたビニール袋とヘルメットを和泉先輩に差し出しました。


「これ、先に持ってってくれない?」

「はいはい」


 受け取ったビニール袋には、破れたズボンや手袋に靴、折れたメガネやらが入っていて、ヘルメットの顎の部分には大きな傷がついていました。ズボンには赤いシミもあって、それを見た陵ちゃんは口元を覆って「ひゃぁ……」と声を漏らしました。


「ところで今更だけど、2人は何でついてきたの?」

「へっ?」


 話を振られて、陵ちゃんは裏返った声で返事(?)をしました。


「それは、ほら、アレですよ。お迎えが和泉先輩1人じゃ、寂しかろうと思って」

「そう。それは、わざわざありがとう」

「いえいえ……」


 海ほたるではあんなことを言っていた陵ちゃんでしたが、今ではめちゃくちゃ恐縮しています。この光景を目の当たりにしては、無理もないことなのでしょうが。


「えっと、遅くなってすみません」

「別に、市辺が、っていうか、みんなが謝ることじゃないよ。そっちにも準備とか、色々あっただろうし」

「それは、どうも……」


 佐屋先輩は本当に、全然、気にしていないようです。陵ちゃんが何かを訴えるような目でこっちを見ていますが、この流れで油を売っていたことを正直に言うほど、私は空気が読めなくはありません。それに、一応私も共犯なのです。

 

少し待つと、和泉先輩の車が病院の玄関口に乗りつけるのが見えました。


「あ、ウチが押します」


 看護婦さんと交代して、陵ちゃんが車椅子を押して車の近くまで行き、少し苦戦しましたが、佐屋先輩は無事助手席に乗り込みました。


「じゃ、発進します」


「よろしく」

 発進する車から後ろを振り返ると、看護婦さんが手を振って見送ってくれていました。



   ◇



 佐屋先輩を加えて4人になった車が、インターに向けて走り出しました。もう時刻は深夜で、来るときにはまばらにいた車もほとんど見かけなくなり、真っ暗でガラガラな道路をひた進みます。


「高速の領収書はとってある?」

「はい、言われたとおりに」

「ガソリンも、家の近くで満タンにして領収書ちょうだい。後で返すから。今はちょっと、手持ちがないからごめんだけど」

「いや、保険会社から支払いきてからでいいっすよ」

「悪いね」

「怪我してるんすから。気にしないでください」


 前に座る和泉先輩と佐屋先輩の会話を、後ろに座る私と陵ちゃんは黙って聞いていました。


「そのズボンは、どうしたんすか?」

 今の佐屋先輩は半ズボンを履いていました。元々履いていたであろう長ズボンが入ったビニール袋は、私の足元に置かれています。

「警察の人がくれた」

「へぇ。よかったっすね」

「よくないよお」


 助手席の佐屋先輩が腕を組みます。


「最初に事故のこと聞かれたとき、こっちが悪いみたいな聞き方されてさあ」

「というと?」

「『急いでたの?』とか、『スピード出しすぎたのかな?』とか、『信号はどうだった?』とか」

「ははあ。実際どうだったんすか?」

「ただの右直事故。こっちが直進の」

「佐屋さんからも車は見えてたんじゃないっすか?」

「まあ、ね。止まるかなと思って見てたんだけど、突っ込んできたから、慌ててブレーキかけたらロックして、滑っちゃって、ドカーンと」

「うへえ」

 

ちなみに今履いているスリッパは病院のもので、これも返却は不要とのことです。

 ほどなく車はインターを通過し、またもガラガラな高速道路をどんどん加速していきます。


「佐屋先輩、来週のテストはどうするんですか?」


 ようやく立ち直ったのか、今度は陵ちゃんが話しかけました。


「その足で大学行けるんですか?」

「行けないこともない」

「まじですか」

「まあ行かないけど」

『え?』


 意外過ぎる返答に、思わず私も声が出てしまいました。


「テスト受ける気があったら、用もないのにこんな千葉くんだりまでツーリングしてないって」


「えっと、じゃあ、単位は……?」


 笑いながら言う佐屋先輩に、私は思い切って素朴な疑問をぶつけてみました。


「諦めた」


 きっぱりと佐屋先輩は言いました。

 あまりの潔さに、私は二の句が継げませんでした。陵ちゃんは「ワイルドや……」と小さく言いました。


「2人とも、呆れてない?」

「いえいえ、滅相もない」

 和泉先輩が言ったのを、陵ちゃんが慌てて否定しました。どうやらさっきのは、エンジン音のせいで前に座る2人には聞こえなかったようです。


「ま、まあ大学はともかく、生活はできるんですか?」

 今度は私が聞きました。

「家の近くのコンビニには行けるし、デリバリーも頼めるから、なんとかなるよ。病院はタクシーで行けばいいし。保険会社が払ってくれるから。まあだから、そんなに心配いらないよ、事故っていったって大した怪我じゃないし」


 おそらく3人ともが大した怪我だと思っていますが、誰も何も言いませんでした。


「まあ、ちょっとしばらく不便だけど、どっちかっていうと、むしろラッキーといか」

「ラッキーって?」


 陵ちゃんがききました。


「事故ったバイク、そろそろ飽きてたんだけど、売っても二束三文だし、どうしようかなあって思ってたところでさ。たぶん全損だから、弁償ってことになれば売るよりずっと高いし。あとこのケガだと、まあまあ通院しなきゃだから、慰謝料とか傷害保険とか、けっこう色々もらえそうなんだよね」

「右直事故だと、佐屋さんの責任は2割くらいですか?」

「バイクだと1.5割らしいよ」

「へえ」

 和泉先輩が相槌を打ちます。

「まあつまり、けっこういいタイミングだったっていうか、正直、おいしいっていうか。次のバイク何買おうかなって、今から考えてるくらいだし」


 弾んだ声で佐屋先輩が言いました。ワイルドといか、逞しいというか、いやはや……。


 その後もぼちぼち雑談していたら車はやがて多摩市に入り、そのうちに佐屋先輩の住むアパートに到着しました。2階建ての古そうな建物で、1階に先輩の部屋の前まで車で乗りつけることができました。


「ここでいいよ」

「部屋の中まで送りますよ?」

「いや、いい」


 和泉先輩の申し出を断って、佐屋先輩は車のドアを開けました。


「まじで今、めっちゃ散らかってるから。来ないほうがいいよ」

「はあ」

「傘借りてくね。うちには折りたたみしかないから。病院で杖もらったら返すよ」

「いつでもいいっすよ。それくらい」


 佐屋先輩は傘を使って器用に車を降りました。


「じゃ、3人とも今日はほんとにありがと」

「どういたしまして」

「私らはなんもしてないですけど」

「お気になさらず」


 私たちがそれぞれに返事をすると、佐屋先輩は一度だけ手を振って部屋の中へ入っていきました。

 

 

  ◇

 

 

 その後は、和泉先輩が私と陵ちゃんを送ってくれることになりました。今は私の家が家が近い多摩センター駅に向かっています。


「面白かった?」

 運転席の和泉先輩が、ミラー越しに陵ちゃんに少し意地悪な視線を送りました。


「うーん…………想定外ですね……」


 陵ちゃんはだいぶ悩んでいましたが、


「シャレにならないはずなんですけど、あんなだと調子だとなんか、冗談みたいで……」

 少し首をひねりながら言いました。

「おもろかったような気もしますけど、ようわかりませんね」


「市辺は?」

「えっ?」


 水を向けられて、ちょっとドキッとしました。


「そうですね…………。すごいなあって、思います」

「何が?」

「なんていうか、想像を超えてくるっていうか、真似はできないなだろうあって」

「なるほど。確かに」


 和泉先輩が小さく頷きます。


「俺の感想言っていい?」

「どうぞ」

「クレイジーだね」


 短く和泉先輩が言いました。


「あれだけ派手に事故っといてのほほんとしてるし、しかもまだバイク降りるつもりがないとは、俺もすごいと思うんだけど、ちょっとやばいなとも思う」

「それでクレイジーですか」

「そう」

 いい人なのは違いないけどね、と和泉先輩は最後に付け足しました。


 やがて車は駅の近くを通りかかり、ちょうど交差点の赤信号で停まったところで私は車を降りました。もう私の住むアパートまで、歩いてすぐです。


「どうも、ありがとうございました」

「はいはい。また来週」

「ばいば~い」


 信号が青になり、和泉先輩と陵ちゃんを乗せた車が発進しました。陵ちゃんは大学のそばの学生寮に住んでいるので、ここからさらに15分ほどかかります。

 なんだか、色々なことがあったような気がする1日でした。とりあえず、今日はうちに着いたらすぐに寝て、明日からテスト勉強を頑張ろう。


 家路についた私は、そんな事を考えながら歩いていました。

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