第98話 コイ

 日本車よりも少し大きめのエンジン音。ダンディな市瀬お父様の車はおフランス製だ。その後部座席に座る。隣には真奈美さん。助手席には由利子お母様。エンジンに火が入ると、しばらくして二度ほどに分けてじわじわと車体が持ち上がるのを感じる。それを待ってから、ゆっくりと車が走り出す。静かな湖面の上をボートで滑るような揺れにしばし身を任せる。

 車ってのもいいな。うちの親父は車を持っていないから、最近は車に乗るといえばもっぱら市瀬家の車だ。

「免許、取ろうかな……」

「直人くん、免許取ったらうちの車を貸すよ」

「そうよ。真奈美を色んなところに連れて行ってあげて」

ぼそりと呟いてしまった独り言に、前席から反応が返ってくる。

「いや。免許、取るほどお金ないです」

「そういえば、来年には美沙も免許取れる歳なのよねー」

「早いな……ついこの間中学生になったばかりだと思っていたが……」

由利子お母様は見た目が若いし、いつも多少エキセントリックだから忘れがちだけど俺と同い年の真奈美さんのお母さんなのだ。

 それでも、うちの母よりは少し年下だ。

「真奈美は免許とか取りたい?」

由利子お母様が後ろを振り返る。リアシートの上で体育座りをした真奈美さんは、前髪の間から魔眼を覗かせてふるふると首を振る。

「じゃあ、やっぱり直人くんが免許取ってくれなくちゃね」

この間まで、九千八百円のママチャリを買えずに徒歩生活をしていた俺に無茶を言わないで欲しい。

「バスと電車と自転車で大丈夫です。九割くらいは……」

そうなのだ。今日はその残り一割に当たっている状況なのだ。今日は天皇誕生日。明日のクリスマスパーティで、シェフ真奈美さんが超絶技巧を振るうための食材の買出しに車を出してもらっている。多忙なお父様も天皇誕生日のおかげでお休みである。さすが天皇誕生日である。クリスマスイブの前日にもう一つ祝日を作るとは天皇陛下は生まれた瞬間から国民に幸せをもたらしている。ありがたすぎる。現人神であらせられる。

 日々の食料品なら駅前のスーパーで十分すぎるが、なんといっても真奈美さんの超料理であり、今回の真奈美さんは外からの観測では分かりづらいが大変に気合が入っている。なので都心近くにあるなんとかという輸入食材の店に行くことになったのだ。というか、日本の食料自給率から言って食料品の大部分は輸入食材だよな。たぶん輸入食材って言葉の定義が若干違うのだ。若干お洒落でハイソなニュアンスを含んじゃっているのだ。間違っても中○産のゾンビ肉ということではないのだけは確かだろう。


 どんぶらこ、どんぶらこ。

 お父様の運転する車の独特な揺れ方を表現するなら、どんぶらこ。その心地よい揺れは適度に効いた暖房の暖かさとあいまって、眠りを誘う。失礼ながら後部座席で睡魔に負ける。


…………。

…………。

…………。

…………。


 なにか、夢を見ていた気がするが目を覚ますと同時に忘れた。目を覚ますと、周囲はすっかり都内の雰囲気になっている。車は立体駐車場に入るところだった。ぐるぐるとネジの中を登っていくようなスロープを登って、車が駐まる。

 ダンディなお父様と由利子お母様。それに真奈美さんと俺。真奈美さんは最近では外出しても足取りはしっかりしている。背中を丸めて歩くヤシガニスタイルは健在だが、少なくともそれなりに直進している。こうして四人で歩くと、すっかり俺が市瀬家の家族みたいだ。いつか由利子お母様が言っていたみたいに、俺はこのまま真奈美さんか美沙ちゃんと結ばれて本当に家族になっちゃうんじゃないか。美沙ちゃんでも真奈美さんでも望外の喜びだ。

 ……。

 いつのまに真奈美さんと結ばれるのが嬉しくなったんだ。最初、美沙ちゃんが真奈美さんを俺に押し付けようと企てたときは、回避すべくがんばった気がする。

 当時は確実に存在していた溝が、この数年間ですごした真奈美さんとの時間に埋められている。そして、すごした時間の上を俺と真奈美さんが歩み寄って、今並んで歩いている。真奈美さんと二人並んで一台のショッピングカートを押す。人の溝を埋めるのは一緒に過ごす時間なのかもしれない。人の間に溝を掘るのときもあるけどな。

 真奈美さんがジャージのポケットから取り出したメモを見ながら、買い物を進めていく。相変わらず通常の半分くらいの速度で歩く真奈美さんだが、買い物でも寄り道せずにメモにあるものだけを機械的にカートに放り込んでいくからか、効率はいい。同じルートを一度も辿らない。カートには、見たことも聞いたこともない野菜や瓶詰めが並んでいく。漫画に出てくるみたいな典型的な形をしたキノコも入れる。名前は聞いたことがない。真奈美さんが瓶を手に取る。ああ、これは名前は聞いたことがある。バルサミコ酢って言うんだよね。すげー、本物初めて見た。

 途中で別行動をしていたお父様と由利子さんがワインと思しき瓶をいくつか持って合流する。

「真奈美、料理に使うのこっちでいいの?」

見せられたワインのラベルを真奈美さんがしばし確認して、小さく頷く。ワインもカートに入る。そっか、まだ俺も真奈美さんも十九歳だから料理用ワインでも買えないんだった。どっちにしても御両親についてきてもらってよかったな。

「……あとはコイ」

真奈美さんがメモの最後の行を指差す。そこには「コイ」と書いてある。恋?

「真奈美は、直人くんと恋してる?」

「してる……」

真奈美さんは淡々と肯定してカートを押す。肯定されたとたんに並んでカートを押していることに照れる。二人並んでの食料品の買出しは、少し新婚夫婦のようでもあると想像してしまったのだ。

 最後の品目は、コイだった。

「でかいな」

どどん。

 白い発泡スチロールのボックスに大量の氷と一緒に入れられたそれはコイだった。淡水魚である。鯉である。池にいるファンシーな方ではない。黒というか灰色というかの微妙な色をした大きな淡水魚である。食用にすることは知っていたし、昔に中華料理か何かで食べたことがある気もする。だが、ご家庭の料理にこのサイズの鯉が現れるとは思わなかった。

 真奈美さん。いったい何を作るつもり?

「……た、たくさんだから」

 前髪越しに真奈美さんと目が会うと、真奈美さんはそれだけ言う。

 たしかにたくさんなのだ。明日のクリスマスパーティーは、市瀬家の四人に加えて、うちの家族の三人もお呼ばれしている。親父だけはどうやらいつものように残業だ。クリスマスは平日なのだ。

「……せ、先生も来るし……」

「先生?つばめちゃん?」

「う……ううん」

「三島先生?」

「うん」

そっか。そーだよなー。三島(姉)にはお世話になりっぱなしである。真奈美さんが社会人をやっているのは超ホワイト職場の三島(姉)の漫画工房があるからである。これは呼ばねばなるまい。

 ……でも。

 もし三島由香里の方も姉についてきちゃったらどうしよう。

 いや困ることじゃない。というか困るのも失礼な話なのだ。

 だけど俺、ほら、最近妹ともつきあってみるっすーで、やたらとスキンシップ多いし、真奈美さんとはこの距離感だし、美沙ちゃんはブレないし。三島との間にあった甘酸っぱくてほろ苦い記憶を思い出すと、ギクシャクしそうで少し困るのだ。修羅場ではないはずだ。


 スチロールボックスの中で冷やされている鯉を抱えながら、ふと三島のことを思う。

 あいつ、どうしているかな……。

 手に、いつか三つ編みを編んだ三島由香里の髪の感触を思い出していた。


◆◆◆◆


 明日のクリスマスパーティに向けて、料理を始めた真奈美さんを邪魔しないようにそっと市瀬家を辞去した。わが愛車(ママチャリ)シルバーアロー号にまたがって、自宅へと向かう。市瀬家と自宅との距離は微妙な距離で、徒歩で一時間ちょっと、自転車で三十分くらい、電車で一駅といった距離だ。駅までの徒歩の時間と電車の待ち時間を入れると自転車より少しだけ早いくらいだ。そんなわけで、最近はシルバーアロー号が主な交通手段である。九千八百円のママチャリでも、さすが新品であり、愛情こめてちゃんと油を挿して空気を入れてやれば、それなりに快適である。

「ただいまー」

「おかえりっすー」

迎えるのは、妹。片手には受験勉強用の赤本を持っている。受験勉強中ならわざわざ出てこなくていいのにご苦労なやつである。

「お前まさか」

妹の手にある赤本の表紙を見て戦慄する。

「なんすか?」

「東大受けるの?」

「パパとママが、せっかく受かりそうなんだからって言うっすから」

俺の妹がこんなに頭いいわけがない!いや。良いのだ。うちの妹は頭が良いのだ。主に記憶力が抜群すぎて、あらゆる試験が参考書持込可になっているレベルで頭が良いのだ。

 それにしても東大……。

 平和な世の中において頭の良さは戦闘力である。なにせ純粋な攻撃力とかは振るいようがない。妹が東大に受かってしまったりしたら、平和な世の中では俺はもう本当に妹と比べたらゴミカスである。バラモスゾンビに立ち向かうスライムである。

 いや、まぁ……。

 妹が東大生にならなくても他にも東大生はこの世に存在しているわけであって兄妹そろってゴミカスよりも、せめて妹だけでも東大生の方が良いのだ。

 そうはいえども頭のデキの違いに愕然とする俺である。今までバカバカとバカにし続けてきた妹だけにショックである。ショック馬鹿でかい。

「そ、そうですか」

つい敬語である。臆病者の俺は、戦闘力の高い者にはあっという間にへりくだるのである。クズ過ぎる。


◆◆◆◆


 翌朝、二十四日金曜日は平日である。今日はサボってる連中多いんだろうなぁと思いつつ、大学に行く。俺も美沙ちゃんとのデートがあったらサボっているところだが、美沙ちゃんとのクリスマスは夕方からの食事会である。

「よぉ」

講義室で熱力学の講義が始まるのを待っていると、隣にみちる先輩が座ってくる。

「おはようございます」

「……モテ男のなおとは、今日の午後九時からなにしてる?」

大変に作為的なものを感じる質問である。セクハラである。しかしみちる先輩相手には、いまさらである。

「美沙ちゃんのうちにいるんじゃないでしょうか。今日、ホームパーティに呼ばれているので」

「くそっ!爆発しろリア充」

トートバッグからグロックが出てきたので、左手でバレルを抑えると同時に抱え込むようにして相手の手首を捻って銃を取り上げる。そのまま捻った手首を後ろに回して、みちる先輩の拘束まで完了。ひそかに妹相手に練習していた技が役に立った。

「くっ、殺せ!」

みちる先輩が不要なテンプレセリフを吐くが、そんな誘いには乗らない。だいたいみちる先輩はエルフでも姫騎士でもない。

「馬鹿なこと言ってないでください。あと、エアガンは人に向けちゃいけません」

そう言って、グロックをみちる先輩に返す。

「……くそ、出来るな。なおと。フラグ立つぞ」

そのフラグはへし折りたい。

 熱力学の教授が入ってきて、講義が始まる。

「先輩。熱力学落としてたんですか?」

「落としてない。去年A取った」

「じゃあなんで、また受けているんですか?」

「………」

先輩のノートを取っている手が止まってうつむく。返事はない、ただの先輩のようだ。

 二限目はみちる先輩は別の講義に行ったが、三限目の講義が終わったときには講義室の前で再び遭遇した。

「昼飯、食べるだろ」

「まぁ、そりゃ」

並んで学食に移動する。今日の夜は大量に食べることが分かっている。軽くかけうどんを頼む。みちる先輩はメンチカツ定食をがっつり頼んでいる。分かっていたことだが、今日も夕食の予定はないようだ。

 いつものように黙々とお互いに黙って昼食を摂る。ここまではみちる先輩の通常運行だが、ちらちらとこっちを見るのは、いつもと少し違う。

「先輩」

「なに?」

なので、少し話しかけてみることにする。

「鯉を使った料理ってなんでしょうね?」

「鯉?鯉こくか、もしくは中華料理の丸揚げにしてあるやつじゃね?」

「ですよねー」

俺も、鯉料理と言えばそれしか思い当たらない。でも真奈美さんの作る料理は、どちらかというと洋食が多い。しかもクリスマスに鯉こくとか中華は出てこない気がする。

「食べるの?」

「真奈美さん……あ、あの美少女のお姉さんなんですけど……がなにか作ってくれるらしくて」

みちる先輩の地雷を踏み抜くのではないかとおびえるが、ここで言葉を濁したらよけいに悪い方向に想像を働かせそうなので、正直に暴露する。

「あの美少女ちゃんのお姉さんか……美人?」

「顔を見せれば美人ですけど、だいたい前髪が胸までかかってます」

「?」

「ちょっと対人恐怖症気味でして」

「あ、そうなんだ」

ちょっとではないけどな。対人の恐怖のあまりに漏らしたりするけどな。

「じゃあ、あの美少女ちゃんと二人っきりじゃないの?」

「ええ、まぁ……。たぶんうちの家族と向こうの家族と一緒じゃないですかね。あと、たぶんあと何人か……」

「へぇ……」

みちる先輩が意外そうな顔をする。そうだろうなと思う。俺だって、家族ぐるみでそんなにたくさんの人とクリスマスを過ごすとか思わなかった。真奈美さんにとっては、もっと意外かもしれない。

「みちる先輩も来ます?」

なんか話の流れ上、言わざるを得なくなった。

「……いかない」

そう言うと思った。

「……対人恐怖症のお姉さんがいるんだろ。いけないよ」

おお。すごいことが起きた。

みちる先輩が空気を読んだぞ。

すごいことが起きた。

大事なことなので二回言った。

「お気遣いありがとうございます」

「ん……だからさ」

みちる先輩が手を出す。まじか。カネを要求されるとは思わなかった。

「いくらです?」

「ちがうよ」

「じゃあなに?」

「……手」

犬扱いされた。お手をしろとのご命令。みちる先輩の奇行にいちいち突っ込みを入れても仕方がない。差し出された掌の上に大人しく手を重ねる。意外に小さなみちる先輩の手が俺の指を掴む。

「ん……」

そのまましばらくニギニギされるに任せる。


◆◆◆◆


 昼食のあとは一限だけ講義を受けて帰る。

 バスを待っていると携帯が鳴った。ここのところ周りの連中はスマホアプリで連絡を取り合っていてハブられ気味なだけに珍しい。しかもメールではなくて着信である。さらに珍しい。

 かけてきた相手を見て、少し複雑な気分になる。

「はい」

「あ……に、二宮?」

「ああ。ひ、久しぶりだな……その。元気か?」

そして、お互いに少しぎこちないやり取りになる。電話の向こうは三島由香里。不意打ちだったが、俺のファーストキスの相手。最初で最後のただ一度だけの三島とのキス。

「……うん。きょ、今日さ」

「ああ」

「市瀬さんのところで、クリスマスパーティするんだって……聞いた」

「ああ。三島も来る?お姉さんは来るらしい」

「う……ううん。わ、わたし……」

「三島?」

三島由香里の声の湿度が増す。

「わ、私、か……彼氏と過ごすから!だから、行かないっ!」

「そうか」

一拍置いて口から出た自分の声音はなにから出来ているのか、自分でも分からない。いろいろと交じり合った声だった。

「二宮」

「うん」

「だから、行かないから……」

「わかった」

「……市瀬さんによろしく言っておいてね」

「ああ。伝えておく」

「……また、電話してもいい?」

「いいよ」

「ん。それじゃあね」

「じゃあ」

そう言って、電話を切る。

 丁度、そこにバスが来る。

 空いたバスの後ろに座って、国道沿いの景色を見る。

 そうか。三島に彼氏ができたのか……。

 どんな男だろうな。あいつに下手なことをしたら蹴り殺されるって分かってつきあうんだろうか……。

 触ってみた自分の唇は冬の寒さの中で乾いていた。


(つづく)

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