第78話 受験生と…

 ふっ。知力とは調整するほうが難しい。ともすれば、暴走しかねん。


 中学生のころの俺なら、こう言っていた。そのくらい、最近の模試の結果が調整に失敗した。


 いい点を取りすぎた。


「二宮、首都圏の国公立も受験したらどうだ?」


ゾッド宮本が助言のふりをした脅迫をする。


「直人、国公立に行ってくれると、母さんも助かるわ」


母が暗に私大ですねをかじるなと脅してくる。


「直人、せっかくだから首都圏の国公立も狙ってみたらどうだ。一人暮らしできるぞ」


父が回りくどく家から出て行けとプレッシャーをかけてくる。


 こんなABCD包囲網が出来てしまったのも、模試で首都圏にある公立大学にB判定とかが出てしまったからだ。俺の第一志望の地元の私大はA判定なのだから良いじゃないか。そのまま、安穏と地元の私大に行かせてくれよ。


 …と、心の中で思いながら、のらりくらりとしているうちに両親が勝手に東京の公立大学に願書を出してしまった。両親の中では、すっかり地元の私大は滑り止めだ。


 困った。


 両親の作戦では、公立大学のほうが本命。地元の私大が滑り止め。


 俺の元の作戦では、地元の私大が本命。さらにもう一ランク下の私大が滑り止めのつもりだった。


 しかし、もともと滑り止めのつもりだった大学の名をあげて、どうしても行きたいから願書を出そうとも言い出せない。最近は宣伝していないが、俺は臆病なのだ。


 つまり、俺にはもう滑り止めがない。


 俺の受験は、一発勝負。予備のパラシュートなしのスカイダイビングだ。




 そんな受験の迫る二学期の後半。


「真奈美さんさ…」


「うん」


並んで高校へと向かう真奈美さんに声をかける。相変わらずのジャージ姿。ジャージの内側に貼るカイロをたくさん貼っているから寒くはないらしい。


「卒業したら、なにしたい?」


少し注意の必要な話題を持ち出す。でも、俺だって無謀に持ち出したわけじゃない。ここのところ、真奈美さんの情緒は比較的安定している。


「なおとくんのメイドになりたい」


「そうか…はい?」


そのような職業はないと思う。いや、職業はあるが求人がない。なにせ、俺が求人を出していないのだから、間違いない。


「掃除、得意になったよ」


前髪の隙間から覗く瞳は自信たっぷりだ。その自信は間違っていない。真奈美さんの部屋はCGかと見まがうレベルで掃除されている。美沙ちゃんがミニスカートで立っていると、床に素敵なものが映ったりしていないか確認してしまうレベルである。


「お料理も得意」


 真奈美さんが、むふーんと鼻から息を吐き出す。


 知っている。その自信も間違っていない。真奈美さんの料理の腕は、ミシュラン三ツ星だ。ミシュラン三ツ星シェフの料理なんて食べたことはないけど、真奈美さんの料理より美味い食い物を知らないのだから、あれが世界の上限だと思ってもあまり間違いではないだろう。特に、フレンチトーストなどは、神レベルだ。


「洗濯は、洗濯機が終わるまで見張ってるよ」


それは、しなくても大丈夫だ。でも俺の着るものなんて制服を除いたらジーパン、Tシャツ、下着、靴下、シャツくらいのものだ。洗濯機で十分だ。


 なるほど。


 俺のメイドなら、真奈美さんの就職先にぴったりだ。問題は、雇い主に資金がないことだ。構造としては、現代日本の社会構造と同じだ。企業に人を雇う余力がなく、既存の労働者が長時間勤務であえぐ一方で、同時に就職難が起こるのだ。


 デカいこと言ってみた。デカイことは言うのは簡単だ。


「いや俺、真奈美さんに給料払えないから」


「お給料いらないよ」


それはメイドではない。奴隷だ。


「日本には労働基準法というものがあって…」


「どこも守っていないって聞いたよ」


その通り過ぎて泣きたくなってくる。なにが悪いんだ。政治か?政治が悪いのか?


「それは社会が間違っている」


「かくめい?」


「しません」


真奈美さんの過大評価が地味に厳しい。俺は、メイドさんを雇うほどビッグな男ではない。もちろん、日本政府を転覆させて社会を浄化するほどの歴史級のビッグマンでもない。どんなに楽天的に見積もっても公立大学に入って、うまくすればサラリーマンになって、二十坪のマイホームを建てて一城の主とか言う程度だ。少しだけ死にたくなってきた。俺はどんなにがんばっても、そこいらにいる砂粒みたいな大勢の中のひとり以上にはなれない。


 妹なら。


 あの妹ならビッグな人間にはなれないかもしれないが、あのフォトグラフィックメモリー能力は少なくとも一万人の中のたった一人になれる。一万人が集まってもあいつ一人じゃなければ、どうしてもダメだということがあるだろう。


 俺はそういうことはない。一万人いたらその中の誰でも俺の代わりができる。


 妹はバカで変だが、少なくとも特別だ。


 正直にうらやましいな。


「…くん?」


自分の考えに沈んでいると、真奈美さんが制服の袖を引っ張る。


「あ、なに?ごめん、聞いていなかった」


「なおとくんは、特別だよ。私、なおとくんとじゃないと…普通になれない」


「真奈美さん…」




 校門をくぐり、あと数ヶ月しかすごさない校舎に足を踏み入れる。


◆◆◆◆


 俺は臆病者だ。


 臆病者は準備する。本番で失敗するのが怖いから、しっかりと準備する。そして、努力はあんまり人を裏切らないこともある。裏切ることもある。


 俺のときは裏切られなかった。


 センター試験。自己採点は、申し分ないスコアを出している。


「直人、やればできるじゃない」


「たいしたもんだ。この調子でがんばれ」


誉めてくれる両親を居間に残して、二階の自室に上がる。


 まずい。


 このままだと首都圏の大学に合格してしまう。そりゃ、首都圏の大学に合格して一人暮らしをするのも楽しそうだとは思う。エロゲの深夜販売にも並んでみたい。だけど俺は安穏と地元の大学に行って、高校の延長みたいなキャンパスライフをエンジョイしたいのだ。


 どうする?


 二次試験をわざと白紙で提出するか?


 しかしそれをやって、地元の大学のほうに落ちてしまったらアウトだ。試験の日程は地元の方が後なのだ。試験当日に熱を出すとか下痢をするとか、たまたま暗記系の科目で知らないところばかり出題されるとか、そういう不運の可能性が完全に否定できない以上、臆病者の俺はリスクをとりたくない。


 どうする。


 …くくっ。


 こういうときお兄ちゃんは辛い。相談する相手がいない。


 上野は俺よりもきわどいボーダーラインにいる。すでに試験期間に入った今、邪魔するわけには行かない。橋本も同様だ。


 三島…あいつに、俺の方から連絡を取るのはムシが良すぎると思う。


 八代さんや東雲さんに上野と橋本を飛び越して連絡するのも、少し気が引ける。


 しかたなく公私混同だと思いつつ日曜日の午後にメールする。


 すぐに返事が来る。


《いいわよ。ついでにご馳走してあげる。駅前の喫茶店でいいよね》


こちらから相談を持ちかけているのに、おごってもらっちゃいけないなと思いつつ、家を出る。駅に向かう。


 電車で一駅。


「あら。ちょうど良かった」


電車を降りるとホームの向かい側に滑り込んできた電車から、相談相手が降りてくる。


「つばめちゃん。ごめん。日曜日に…」


「いいのよ。先生的にも、友達的にも断る理由は無いもの」


やさしく微笑む佐々木先生であり、つばめちゃんでもある、その人の顔を見て心の中に思いもよらない温かな安堵が広がるのを感じる。


 俺、けっこう精神的に参っていたんだな。


 安堵を感じて初めて、追い詰められた自分を確認する。俺の斜め前を歩くつばめちゃんの若草色のコートの背中を見て抱きつきたくなる。真奈美さんが俺に抱きつく気持ちはこれなのかと思う。


 喫茶店に入る。


 奥の席に案内されそうになって立ち止まる。


「すみません。こっちの席でいいですか?」


そう言って、反対側の端の席に座る。L字になったシートのついた少し大きめの席だが店内が混雑しているわけでもない。二人で占拠しても迷惑にはなるまい。あっちの奥の席は、つばめちゃんと座ってはいけない気がする。なんだか少しだけ三島に申し訳ない。


 斜めに向かい合って座る。いつぞやのヤジウマウェイトレスが注文をとりにやってくる。


 (ちがうぞ。この人は学校の先生で、受験の進路相談だぞ)


 と、念波を送ってみるが、オールドタイプのヤジウマウェイトレスにどこまで通じているだろうか……。


「なおくん、なに食べる?」


「いや。コー…紅茶でいいす」


「そう?じゃあ、チーズケーキセット二つ。私、ダージリン」


勝手にチーズケーキがついた。


「チーズケーキはふたつとも私が食べるわ」


勝手にチーズケーキが去って行った。


 そして俺の前にはアールグレイ。つばめちゃんの前にはチーズケーキが二つとダージリンが並ぶ。


「んでばに?ばにをはやんべぶぶの?」


食べてからでいい。


 いつもよりも、ずいぶんお行儀の悪いつばめちゃんだ。おかげで、こっちの緊張も解ける。狙ってやっているのかな。この人。二十九歳と二十四ヶ月の見せる年上の余裕は、思わぬ形を取る。大人っぽいのだけが大人じゃない。子供っぽい大人の余裕もある。


 ストレスに弱った俺の精神に心地いい。


「実は…」


つつみ隠さず話し始める。


 学校の先生にだったら、こんなことは言わない。そんなことまで話してしまう。


 それを聞いたつばめちゃんがフォークを置いて首を傾げる。


「んー。まぁ…予想通り…かな」


「そうなんですか?」


「うん。細かくは分からないけど、直人くんやさしいから」


そこまで言って、つばめちゃんが口を閉ざす。顔から表情が消えて、思い悩む。


「…私も自信がないから、卑怯な言い訳を先にするわね」


「はい」


つばめちゃんの声も眼差しも、今までに見たことがないほどに真摯でまじめな色を帯びる。そして、静かに口を開く。


 俺の目をじっと見て、言う。


「なおくんの状況にいて、なおくんの年齢で、なおくんの能力で、なおくんの現在にいるのは、なおくんしかいないのよ。私だってどの大学に行くなんて決断は一度しかしていないし、その決断も正解だったかはわからない。だって別の道に進んだ未来は起こらなかったんだもの。だから愚者の愚行だったのか、賢者の道だったのかの差は誰にも分からないわ。だから私は私の思うことだけ言うけど、それはアドバイスじゃないからね。都合が悪くなったら逃げるわよ」


「はい」


ありがとう。その言葉が胸のうちに浮かぶ。これ以上に真面目で正直な相談相手はいない。臆病者の俺には逃げると宣言するつばめちゃんが誰より信じられる。驕らず、へりくだらず、真摯な逃げ道すら俺に見せて相談に乗ってくれている。


「じゃあ、言うわね」


だまって、うなずく。


「なおくんが一度地元から離れてくれるとうれしいわ」


意外な言葉が飛び出す。


「私のわがままで、そう思うわ」


「そうですか?」


「なおくん…」


「はい」


「真奈美さんのいない自分って想像つく?」


「え?…そ、そりゃ、だって去年の五月までは知らなかったんだし…」


「今のなおくんと、去年のなおくんは違うわ」


指摘されるまでもなく分かっていた。だけどそれを考えたことはなかった。真奈美さんのいない自分。


「それは…」


気づく。


 俺は、真奈美さんに頼られていて、同時に真奈美さんに頼られていることにいつの間にか自分の価値を見出していたんじゃないか?


「それも悪くないと思うのよ。人は、人と助け合って生きていくものって人もいるもの。それもそうかなとも、思うし」


つばめちゃんが、断定と確定をさけた言い回しで続ける。優しげな瞳には、つばめちゃん自身も答えに辿りつけていないフラフラとした不確定さが映る。


「…真奈美さんは、俺と一緒にいられれば普通でいられるって言ってました」


「そう思うわ。真奈美さん、専業主婦をやらせたらとてもいい奥さんだと思うわ。無駄遣いもしないから、なおくんと二人でつつましく暮らしていけるかもね」


ふと、そんな未来を想像する。料理が抜群に上手で、美人な真奈美さん。部屋を綺麗にしておくことと、ノートにちまちまと絵を描くことくらいしかしていない真奈美さんが食べていくくらいには、なんとか俺でも専業主婦をさせてあげられるかもしれない。


「えと…せ、専業主婦って…まだ…」


「早い?でも、ここに残ってずっとこのまま続けたら、真奈美さんがなおくんの奥さんになる以外の未来って、いつに…あ…」


言いよどんで、つばめちゃんが顔を片手で覆い、もう片方の手のひらを俺に向けて突き出す。


「…ごめんなさい。忘れて。今のなし」


「なし?」


「うん。今のは、ナシ」


そうかな。言っていることは、至極もっともだと思う。今の俺と真奈美さんの関係は、真奈美さんの社会復帰支援って範疇を超えている。今、つばめちゃんが指摘したように、共依存なのかもしれない。俺も、真奈美さんのためと言い訳をしながら、必要のない親切までやっている。


 美沙ちゃんがいつか言ったとおりだ。


 俺は、真奈美さんが俺に依存していることに依存している。


「佐々木先生…そのとおりかもしれません」


つばめちゃんは、やっぱり俺の先生だ。だけどひとつだけひっかかる。


「…でも、つばめちゃん。なんで、今のはナシだったの?」


つばめちゃんのほっそりとした長い指がテーブルに置かれる。右手の中指にペンだこがあるなと思う。


「私はきっと、なおくんの人生相談を受けるにはふさわしくないわ」


「つばめちゃん以上に相談する相手なんていないよ…たぶん」


「だからよ」


「?」


「なおくんのことを俯瞰できないもの」


「そうなの?」


「そうよ」


「つばめちゃん?」


「逃げるって言ったわ。私、最初に」


つばめちゃんの形の良い眉が寄って、しわをつくる。


「あ。ごめんなさい。自分で考えます。あの…」


「逃げちゃっていい?」


「…はい。ありがとう。つばめちゃん」


「うん。ごめんね」


目の前で、相談事から逃げ出されて、それでも俺はほっとしていた。今まで、じわりじわりと気持ちを締め付けていたストレスから解放された実感がある。


「つばめちゃん」


「ん?」


「ありがとう。一緒に困ってくれて」


だまって笑いながら、二つ目のチーズケーキにフォークを入れる二十九歳と二十四ヶ月。ソファに手を下ろすと、やわらかい手があたたかく包んでくれた。


◆◆◆◆


 部屋に帰る。




 赤本を取り出して、机に向かう。


 なるようになるだろう。俺に出来ることは、自分のするべきことを積み重ねることだ。問題を解いていく。手を動かす。暗記項目を小さく呟き、声を耳に届ける。


 勉強しよう。


 受かるなら、受かる。


 落ちるなら、落ちる。


 受かって、真奈美さんとなかなか会えなくなるなら、会えなくなるだろう。


 そうなったとしても俺は、真奈美さんにちゃんと向き合って伝えればいい。俺は真奈美さんの味方だし、友達だし、真奈美さんは大切だと伝えればいい。


 これも、考えたくない真奈美さんとの関係という問題から逃げているのかもしれない。勉強に逃げて、思考停止しているのかもしれない。それでも、手を動かして勉強する。


「直人ー。真菜ぁー。ごはんよー」


階下から、母親が夕食が出来たことを知らせてくる。


 妹の部屋からは反応がない。ヘッドフォン着用でエロゲしてやがるな。壁を蹴って、脅かしてから声をかけて階下に下りる。


「直人。受験の日、雪で電車が止まったりすると大変よ。念のために、前日から都内に泊まっておく?」


「んー。そうだね。ネットで予約しておくよ」


俺の受験のときの宿泊の話だ。朝、早く出れば試験開始前には余裕で間に合うが、母親の言うとおり、雪で電車が止まったり、バスが止まったりしたら危機に陥るくらいの距離ではある。実際、去年の冬コミの帰りは、つばめちゃんの部屋まで帰りつけないところだった。


 ちらりと隣の妹を見る。


「真菜も一緒に行くか?どうせ休みだろ」


「行くっすー」


「遊びに行くんじゃないのよ。真菜」


「にーくんは、受験してればいいっす。私はエンジョイ、レッツショッピングっすー」


ニュータイプ的に分かった。こいつ、秋葉原に行ってエロゲを買うつもりだ。対面じゃ絶対に売ってくれないぞ。お前、見た目は中学生だからな。


「にーくんのパソコン、私の部屋にあるっすから。私が予約しておくっすよー。レムかワシントンホテルっすかね」


アキバ基準で選定してんじゃねー。


「なるべく徒歩でも試験会場にたどり着けるところにしてくれ」


試験当日に雪で交通機関が乱れるというのは、珍しい話じゃない。そんなので、失敗したくない。


「珍しいわね」


「なにが?」


「直人が自分から、真菜を誘うなんて」


「一人でいると緊張して眠れそうにないけど、こいつがいればそれどころじゃないからな」


「あー。そうね。アニマルセラピーみたいなものよね」


母親が娘をアニマル言っている。しかし、食卓を囲む家族の誰からも異論が出ない。オモシロ珍獣真菜である。


◆◆◆◆


 そして、受験当日がやってくる。




 フロントのお姉さんが停止する。同行した妹が十八桁の予約番号をそらんじたからだ。俺にとっての日常は、ほとんどの人にとって脅威である。ここに来るまでも、初めての街で迷いもしなかった。妹がストリート・ビューを丸暗記してたからだ。通過する自動販売機のメニューが変わっていることまで指摘していた。


 うちの妹はスマホより便利である。やはり、こいつを連れてきてよかった。


 フロントのお姉さんからカードキーを受け取って、エレベーターで客室のある階まで上がる。


 部屋に入る。


 やはり、こいつを連れてくるんじゃなかった。


「真菜。お前だよな。予約したの」


「そーすよ」


「なんでダブルの部屋なんだよ。アホかてめーは!」


ベッドが大きいので、遠慮なく妹に投げっぱなしジャーマンを見舞った。でかいベッドっていいよね。


「に、にーくんの緊張を解いてやらねばならんのっす!」


なるほど。受験前日に緊張する俺を、ゆっくり眠らせてくれるという心積もりか。なんと心優しい妹だろう。


 そうだよね。


 健康な二人の兄妹がホテルのダブルベッドで過ごしてなにもないわけがない。


 だから俺は、妹をアルゼンチンバックブリーカーで担ぎ上げ、ダブルベッドに豪快にボディスラムをかました。


「はぐぅっ」


続けざまに、ベッドの上に飛び乗り垂直落下式DDT。


「ぶっひぃっ」


背後を取り、チキンウィングバックブリーカー。


「あがががが」


ここでフォール!カウント。ワン!トゥー!スリィー!


「いっちばぁーんっ!」


往年のハルク・ホーガンのように人差し指を天に突き上げて、勝利の雄たけびを挙げる。


「に、にーくんはアホっすかーっ!ホテルのダブルベッドで、妹とやることがそれっすかーっ!」


妹がリング…じゃない、ダブルベッドの上でガバっと起き上がる。


「真菜…」


「な、なんすか?」


「これ。現実だ」


現実で実の兄妹がホテルのダブルルームに宿泊するとしても、起きることはせいぜいがこの程度である。


「現実世界は、暴力に満ちてるっす」


「エロゲは愛に満ちてるのにな」


「現実ってダメっすよね」


「そうだな。だが、悲しいが事実だな」


「暴力をふるってるのはにーくんっすけどね」


「マナシロウ、暴力はいいぞ」


「貴様は、断じてトキではないっす!ほわちゃーっ!」


世紀末救世主な奇声を挙げて、秘孔を突きに来た妹を岩山両斬破で撃墜。あたりまえだ。俺は二宮直人であり、トキではない。


 少なくとも、おかげさまで明日の試験には自信を持って望めそうだ。




 自信のキーワードは「まかせろ。俺は天才だ」




「それじゃあ、にーくん。また夕方っす」


翌朝。試験会場の前で突き出された妹の拳に軽く拳を当てる。『幸運を祈るっす』と言わないあたりが、妹だなと思う。この妹は、祈る手があるなら剣を振るい、拳を打ち付けて道を切り開く。真奈美さんのことを諦めかけたときも、こいつに引き起こされた。こいつはバカだが、同時に美沙ちゃんが言うように、クラスの誰からも頼りにされるやつなのだ。俺も、ここぞというときには頼りにしている気がする。


「行ってくる」


そう言って、試験会場に入る。


 試験が始まる。解ける問題は解ける。解けない問題があっても、それが今の俺と思える。落ち着いている。正直、合格圏の点数が取れたかは自信がなかった。だが、少なくとも今日まで勉強してきた俺の出来ることはやった。そんな納得の行く解答を提出して、試験会場を出る。万が一のためにバッテリーまで外していた携帯電話にバッテリーをつけて、妹にメールする。


《終わったぞ》


《アキバっす。すぐ来るっす》


めんどくさいやっちゃ。


 試験会場から、わざわざ電車に乗って秋葉原駅まで行く。すげー階段を下りるんだけど、この駅、どんだけ高いところを電車が走っているんだ。


「おにいちゃぁあーんっ!」


改札を出ると、妹が全力ダッシュで駆け寄ってくる。周囲のリュックサックを背負った紳士たちが一斉に妹のほうを振り返る。この秋葉原という街には、いったい何人のお兄ちゃんがいるのだろう。


 というか、あのバカめ。確信犯だな。お兄ちゃんなどという呼称を使うとは。


「お兄ちゃんじゃねーよ。余計な注目を浴びるな」


「今こそ、にーくんの力が必要な時っす!助けて欲しいっす」


妹が真剣な目で、俺に助力を求める。ただ事ではない雰囲気だ。


「どうした?」


俺の声にも真剣味が混じる。信じられないことだが、こいつ、他人から見ると美少女の部類に入るらしい。なにか危険なことになっているのか?東京は怖い町だ。


「十八歳以上の身分証明書を見せないとエロゲが買えないっす!にーくんの学生証を今すぐ!さぁ!」


心配して損しすぎである。分かっていても、言わずにいられない言葉がある。


「お前、バカだろ…」


「急ぐっす!販売店初回特典ポストカードがなくなるっす!さぁ!」


本当にバカだ。お前、もう地元に帰っていいぞ。


 そう思いつつ、一緒にゲーム屋に入って初回特典版のゲームを代わりに買ってやる俺の心境を一言で表すなら諦観だ。諦めた。こいつの馬鹿は矯正不能だ。


 そっと『お兄ちゃんは無慈悲な夜の帝王』というエロゲを手に取る。


「これか…」


死んだ目の俺。


「それっす!にーくんっ!」


きらきら状態の妹。


 ちらちらと店内のリュックサックを背負った紳士が盗み見るように俺を見る。俺のことを『にーくん』と呼ぶ見ようによっては中学生くらいに見える妹とならんで、手に『お兄ちゃんは無慈悲な夜の帝王(R18・ソフ倫)』のパッケージを持っている俺を見る。やめろ。そこの紳士よ。スマホをしまいたまえ。なにをツイートしているんだ。


 さっさと済ませてしまおう。


 レジに持っていく。レジの店員が妙に元気なのが気になる。


「お買い上げありがとうございます!こちら、ウィンドウズ版『お兄ちゃんは無慈悲な夜の帝王』初回限定版でお間違いないでしょうか!」


殺すぞ。てめぇ。


「こちらが、当店限定『お兄ちゃんは無慈悲な夜の帝王』初回限定版、特典ポストカードになります!一緒に入れておきます!」


声、でけぇよ。


「一万円おあずかりします!」


早くしろ。


「お返し、御一緒に御確認ください!」


早くしろってんだ。


「どうもありがとうございましたーっ!」


あんがとよ。


◆◆◆◆


 帰りの電車。


 そんなに長くない。せいぜい二時間の行程だ。東京の大学に合格しても、おそらく合計で三時間もあれば地元に戻れる。朝、少し早起きして、六時に出れば十時には到着している。夜中までに帰るつもりなら、夜の八時に出れば十分だ。実際、コミケのときは、あっさりお台場までは来ていたんだからな。毎日はキツい距離だが、なにかのイベントのときに日帰りできない距離ではない。


 だが、わざわざ出かける距離であることに違いはない。、


 わざわざ、出かける距離。


 真奈美さんと、美沙ちゃんと、妹がわざわざ出かけなければ俺に会えない距離。


 今日、書いた解答。


 正解が多ければ俺はひとり、その距離に住む。




(つづく)

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